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東浩紀『訂正可能性の哲学』を読んで

感動した。大学に入る前の春休みに、現代文の先生に勧められて初めて東浩紀の『弱いつながり』を読んだときの感動がよみがえってきた。。。

さて、ここでは、自分なりにポイントを要約したうえで、まだ腑に落ちていない点をいくつか整理したいと思う。


1.人間の「してしまう」性

人間は正しさを追い求める存在であると同時に、過ちを犯してしまう存在でもある。だからこそ訂正可能性が重要だ、という東の主張は、人間が生きていくうえで避けることのできない「~してしまう」という性質を肯定してくれるものだと思う。

共産主義とかシンギュラリティとか、誇大に語られがちな「夢」は、これさえ実現すれば人間はあらゆる面倒な些事から解放されるのだ!と私たちを誘惑する。しばしばそういった幻想は、人々を集団的に酔いしれさせ、おぞましい結果を招いてきた。

アーレントがフランス革命よりもアメリカ独立革命を高く評価したように、私たちは何かから解放されたいという危険な夢に酔いしれるのではなく、議論や生活を営むための土台となるような制度を志向する「持続性」にもっと目を向ける必要がある。

内外を分かつ境界を固定化せずに、常に訂正可能な状態にしておく。それこそが正義であり、民主主義であり、家族という共同体のあり方なのだ。

以上がちょっと粗すぎるかもしれないが、本書を読んだ自分なりのまとめである。

2.「喧噪」と「マルチチュード」

一方で、まだ自分の中で腹落ちしていないポイントを整理しておきたい。

一点目は「喧噪」だ。ハーバーマスの「熟議」ではなく、トクヴィルがアメリカ社会に見たような雑多な声の多数性-ひいては結社の自由-こそが重要だとの指摘がある。

確かにハーバーマスのいうような熟議的合理性なるものは、ポピュリズムが吹き荒れる現代にあっては、やや時代錯誤であることは否めない。

しかし、ここで言われている「喧噪」と、東が失敗に終わったとして批判したネグリの「マルチチュード」とはどのように違うのだろうか。

東の主張を肯定的に汲むのであれば、結社へとつながる理路が「喧噪」にはあって、「マルチチュード」にはない、ということだろうが、ここには何かが足りないのではないか、と思わざるを得ない。

ここで、斎藤幸平が『コモンの「自治」論』で展開している議論を参照したい。ネグリらの「マルチチュード」を体現する運動としてのウォール街占拠運動が敗北に終わったことを受け、ネグリらは立場の転換を図る。

その転換のひとつが、「水平的なネットワーク」だけでは、素朴政治になってしまうという批判を受け入れたことです。そして、ネグリとハートは『アセンブリ』のなかで、素朴政治を乗り越えるために、リーダー(指導者)のもとで、「制度化」や「組織化」を行う必要性をはっきりと認めるようになります。つまり、資本主義を変えるためには、法制度の変更が必要だし、そのためには、大衆の組織化が求められると言うのです。

斎藤幸平、松本卓也ほか編、『コモンの「自治」論』、p.257

確かに「マルチチュード」だけではだめだった。必要なのは「喧噪」を結社へと持っていくための「組織化」だ。それが社会運動の実践から得られた教訓であると斎藤は指摘している。

この指摘は、東の主張を退けるどころか、むしろ補強する論点になりうると私は直感している。なぜなら、アーレントの言っていた「持続性」とはまさにこのことではないかと思うからだ。

3.政治と文学

もう一点目は、政治と文学の関係だ。

本書を読んでいて最も興味深かったのは、ルソーの主張を『社会契約論』ではなく、ほとんど読まれてこなかった『新エロイーズ』の精密な読解から立ち上がらせた東の読解だ。

人工的な社会をあたかもそれが自然であるかのように訂正する。政治は文学を必要とする。なぜなら、そういった訂正作業なしには、一般意志が全体主義へと暴走することを防ぐことができないからだ。

ここで、私が立ち止まって考えてみたいのは、では、どのような文学が政治を変えうるのか、という問いである。

私がここであえて提示したいのは、ジョージ・オーウェルについて論じたレベッカ・ソルニットの『オーウェルの薔薇』である。

オーウェルと言えば、『1984年』の著者であり、監視国家ディストピアを描いた、どちらかと言えば暗いイメージが強い。

ところが、そんなオーウェルにはガーデニングをこよなく愛し、自然を大切にする人間的な側面があった。むしろ、そういった側面があったからこそ、同時代の空気に飲まれることのない、批評性に富んだ政治的な主張が可能になったのだと、ソルニットは指摘する。

オーウェルが成し遂げたたぐいまれな仕事は、ほかのだれもしなかったような仕方で、全体主義が自由と人権にとってのみならず、言語と意識にとって脅威であることを名指し、記述したことだ。
(中略)
しかし、その達成は、その動力源となったコミットメントと理想主義によって豊かにされ深められたものだ。彼が価値あるものと考え、欲したもろもろ、欲望そのものに、また喜びと楽しみに彼が価値を見出したこと、そしてそうしたことどもが、権威主義的国家とそれが私たちの魂を破壊するべく介入してくることに対して抵抗する力になりえるのだという彼の認識、それが彼の仕事に活力を与えたのだ。

レベッカ・ソルニット、『オーウェルの薔薇』、p.323

奇しくも、ソルニットはこの著作のなかでオーウェルとアーレントの関係について言及している(p.269)。それに、オーウェルの趣味であるガーデニングが、あたかも自然であるかのようにかのように人工的に手を加えることであることそのものであることも、単なる偶然の一致とは思えない。

4.まとめ

以上が東浩紀の『訂正可能性の哲学』を読んで、私が気になった点である。

冒頭で「腑に落ちていない点がある」と言っておきながら、書いているうちに自分の頭の中で議論が展開していったものを書き留めているため、まとまりがなかったかもしれない。ご容赦いただきたい。

このブログでは、今回のように、読んだ本の感想をまとめると同時に自分が疑問に思ったことを書き留めておいて、(余裕があれば)関連しそうな別の著作や時事ネタなどと絡めて展開していきたいと思う。


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