ブラム・ストーカー「ドラキュラの客」新翻訳
ドラキュラの客(序文と冒頭部分)
みなさまへ
この物語は、私の夫、ブラム・ストーカーが亡くなる数か月前に出版しようと計画していた短編集の中の一つです。夫はみなさまも知っている有名な小説『ドラキュラ』の作者です。この本には、もともと『ドラキュラ』に掲載される予定だったお話も入っています。
夫が生きていれば、もっと内容を修正したり、より良い物語に書き直したりしたかもしれません。でも、私は夫が書いたそのままの形で、みなさまに読んでほしいと思いました。
フローレンス・ブラム・ストーカー
「ドラキュラの客」
太陽がキラキラと輝く、気持ちのいい初夏の日のこと。私はドイツのミュンヘンという街で馬車に乗り、ドライブに出かけるところでした。
私が泊まっていたホテルの支配人、デルブリュックさんは、馬車のドアまで見送りに来てくれました。「楽しいドライブを!」と言いながら、彼は馬車の御者(馬を操る人)であるヨハンに、「日が暮れる前に戻ってきてくださいね。天気が急に変わるかもしれませんよ。それに、今夜は何の夜か、あなたは知っていますよね?」と意味ありげに言いました。
ヨハンは「はい、ご主人様」とだけ答えて、馬車を走らせ始めました。
町を出て少ししたところで、私はヨハンに馬車を止めるように頼み、「今夜は何の夜なの?」と尋ねました。
ヨハンは十字架を切って(キリスト教の習慣で、お祈りの時にする動作です)、「ヴァルプルギスの夜です」と答えました。そして、大きな懐中時計を見ながら、少しイライラしているようでした。
ヴァルプルギスの夜というのは、ヨーロッパの言い伝えで、魔女が集まって宴会を開く夜とされています。だからヨハンは、夜になる前に戻ってこないと、何か良くないことが起こるかもしれないと心配していたのかもしれません。
これは、私が不必要な質問をして出発を遅らせてしまったことに対する、彼なりの丁寧な抗議の仕方だったのかもしれません。私は馬車の座席に深く座り直し、ヨハンにそのまま進むように合図しました。
ヨハンは急いで馬を走らせましたが、時々馬たちは不安そうに空気を嗅いでいました。私もなんだか不安になって、辺りを見回しました。
道は人気がなく、風が強く吹く、少し寂しい場所でした。しばらく進むと、脇道が見えました。小さな谷へと続く、魅力的な道です。
私はヨハンに、その道を進んでみたいと言いました。
するとヨハンは、何度も十字架を切りながら、あらゆる理由をつけて反対してきました。「その道は危ない」「時間が遅くなる」「天気が悪くなりそう」などなど…。ますます興味を持った私は、詳しく理由を聞こうとしましたが、ヨハンはごまかすように答えるばかりでした。
私はヨハンの心配をよそに、谷へと続く脇道に足を踏み入れました。
しばらく歩いてみましたが、特に変わった様子はありませんでした。しばらくすると、森が見えてきました。この辺りは、人が全く住んでいない、荒れ果てた場所のようです。
少し休憩しようと座って周りを見回すと、風が冷たくなってきていることに気づきました。空には厚い雲が広がり、遠くで雷のような音が聞こえてきました。どうやら嵐が近づいてきているようです。
私は少し不安になりましたが、歩き続けました。辺りの景色は、さっきよりもずっと美しくなっていました。
歩くのに夢中で、時間はあまり気にしていませんでした。でも、日が暮れ始めて、ようやく家に帰らなければいけないことに気づきました。
空はどんどん暗くなり、雪が降り始めました。私は寒さで震えながら、早く森にたどり着こうと急ぎました。
雪は激しくなり、あっという間に辺り一面が真っ白になりました。
道は雪で分かりにくくなっていました。しばらく歩いていると、いつの間にか道に迷ってしまったようです。足元の地面が柔らかくなり、足が雪と泥に深く沈んでいきました。
風はますます強くなり、私は風に飛ばされそうになりながら走りました。雪は容赦なく降り続け、目を開けておくのもやっとでした。
そんな時、稲妻が光り、目の前に大きな木々が見えました。雪に覆われた、イチイとヒノキの森です。イチイとヒノキは、どちらも冬でも葉が落ちない、常緑樹です。
私は急いで森の中に入りました。森の中は風も弱く、少しだけ安心しました。空は真っ暗になり、嵐の音が夜の静けさの中に消えていきました。
時々、雲の切れ間から月明かりが差し込み、私がヒノキとイチイの木々の深い森の中にいることを教えてくれました。
雪の夜の墓地
雪が止んだので、私は木の下から出てきて、もっと近くを調べてみることにしました。私が通り過ぎたたくさんの古い建物の跡の中に、ボロボロでも、しばらくの間雨風をしのげるような家が残っているかもしれないと思ったのです。
森の端を歩いていくと、低い壁を見つけました。壁に沿って歩いていくと、開口部があり、そこからヒノキの木が並木道のように続いていて、何かの建物の四角い形が見えました。
しかし、ちょうどその瞬間、雲が月を隠してしまい、あたりは真っ暗になってしまいました。風は冷たさを増し、私は歩きながら身震いしました。でも、どこかで雨風をしのげるところを見つけられるかもしれないという希望があったので、暗闇の中を手探りで進みました。
突然、あたりが静かになりました。嵐は過ぎ去り、まるでそれに合わせて、私の心臓も止まってしまったかのように感じました。でも、それは一瞬のことでした。突然、雲の切れ間から月明かりが差し込み、私が墓地にいることがわかりました。そして、目の前にあった四角い物体は、雪に覆われた大きな白い大理石の墓だったのです。
月明かりとともに、嵐の音が再び聞こえてきました。まるで嵐が息を吹き返したかのように、犬や狼の遠吠えのような長く低い音が響き渡りました。私は恐怖と驚きで体が凍りつき、心臓が締め付けられるように感じました。
月明かりが墓に降り注ぐ中、嵐は再び勢いを増してきました。まるで何かに引き寄せられるように、私はその墓に近づき、それが何なのか、なぜこんな場所にポツンと建っているのかを確かめようと思いました。
墓の周りを歩いてみると、ドリス式(※古代ギリシャ建築で使われた柱のデザインのことだよ)の扉の上に、ドイツ語でこう書かれているのが見えました。
「シュタイアーマルク、グラーツのドリンゲン伯爵夫人 死を求め、そして見出す 1801年」
墓の上には、大きな鉄の杭が突き刺さっているように見えました。墓の裏側に回ると、今度は大きなロシア語の文字が刻まれているのが見えました。
「死者は速く旅する」
この墓全体から、何か奇妙で不気味な雰囲気が漂っていて、私は気分が悪くなり、不安になりました。初めて、ヨハンの忠告を聞いておけばよかったと思いました。
そして、この恐ろしい場所で、私はあることに気づきました。今日はヴァルプルギスの夜だったのです!
ヴァルプルギスの夜とは、ヨーロッパの言い伝えで、悪魔が歩き回り、墓が開いて死者が蘇る夜とされています。地と空と海のあらゆる悪霊が騒ぎ出す夜なんだって。魔女たちが集まって宴会を開く、なんて話もあるよ。
まさに、御者が特に避けていた場所、何世紀も前に人が住まなくなった村、そして自殺した人が眠る場所。私は今、そんな場所に一人でいるのです。恐怖で心が折れそうになり、雪に覆われた地面の上で寒さに震えながら、再び激しくなる嵐に立ち向かおうとしていました。
恐怖で気を失わないように、私は今まで学んできたこと、宗教のこと、そして勇気について、必死に考えました。
その時、ものすごい嵐が私を襲いました。何千頭もの馬が駆け抜けるかのように地面が揺れました。今回の嵐は、雪ではなく、大きな雹(ひょう:空から降ってくる氷の粒のことだよ)を降らせました。まるで石を投げつける機械から放たれたかのように、雹は激しく降り注ぎ、木の葉や枝を打ち落としていきました。ヒノキの木の下にいても、まるでトウモロコシの茎の下にいるように、全く役に立ちませんでした。
最初は一番近くのヒノキの木に駆け寄りましたが、すぐにそこを離れて、唯一安全そうな場所、大きな大理石の墓の入り口へと走りました。重い青銅の扉に寄り添うことで、雹から身を守ることができました。雹は地面や墓の側面に当たって跳ね返り、私の体に当たってきました。
私が扉に寄りかかると、扉が少しだけ内側に開きました。この容赦ない嵐の中では、墓の中ですらありがたい避難場所でした。私が中に入ろうとした瞬間、空全体を照らす稲妻が走りました。
その瞬間、私は墓の暗闇の中に、ふっくらとした頬と赤い唇をした美しい女性が、棺桶(かんおけ:遺体を埋葬する時に、その中に入れる箱のことだよ)の中で眠っているように見えました。そして、雷鳴が轟くのと同時に、まるで巨人の手に掴まれたかのように、私は嵐の中に放り出されてしまいました。
あまりにも突然の出来事で、私は何が起きたのか理解する間もなく、雹の雨に打たれていました。
同時に、私は一人ではないという奇妙な感覚に襲われました。私は墓の方を振り返りました。
ちょうどその時、再び激しい稲妻が走り、墓の上に突き刺さっていた鉄の杭に命中しました。まるで爆発でも起きたかのように、大理石の墓は粉々に砕け散りました。
死んでいたはずの女性が苦しそうな表情で起き上がり、炎に包まれました。彼女の苦痛に満ちた叫び声は、雷鳴にかき消されてしまいました。
最後に聞こえたのは、恐ろしい音の混ざり合いでした。再び巨人のような力に引きずられ、雹の雨に打たれながら、私は周りの空気がオオカミの遠吠えで満ちているように感じました。
最後に見たのは、ぼんやりとした白い影でした。まるで周りの墓から、白い布をまとった死者の霊が現れ、激しい雹の白い霧の中をこちらに向かってくるようでした。
ゆっくりと意識が戻り始め、とてつもない疲労感に襲われました。しばらくの間、何も思い出せませんでしたが、徐々に感覚が戻ってきました。
足は激しく痛んでいましたが、動かすことができませんでした。まるで麻痺しているようでした。首の後ろから背骨にかけて、氷のように冷たく感じ、耳も足と同じように感覚がなく、痛みを感じていました。しかし、胸は温かく感じました。
それはまるで悪夢のようでした。もし、そう表現できるなら、肉体的な悪夢でした。胸に何か重いものが乗っているようで、息苦しかったです。
この半分意識がない状態は、長い時間続いたように感じました。そして、意識がはっきりしてくると、私は眠っていたか、気を失っていたかのどちらかだったのでしょう。その後、船酔いのような吐き気を催し、何かから解放されたいという強い衝動に駆られました。それが何なのかはわかりませんでした。
あたりは静まり返っていました。まるで世界中が眠っているか、死んでいるかのようでした。近くにいる動物の低い呼吸音が、静寂を破っていました。
私の喉に温かくてザラザラしたものが触れているのを感じました。そして、恐ろしい事実に気づき、私の心臓は凍りつき、血の気が引きました。
何か大きな動物が私の上に覆いかぶさり、私の喉を舐めていたのです。恐怖で動けずにいましたが、その動物は私が何か変化に気づいたことに気づいたようで、顔を上げました。
私は、まつげの間から、巨大なオオカミの燃えるような二つの目を見ました。大きく開いた赤い口の中には、鋭い白い歯が光っていました。そして、その獣の熱く荒々しい息が、私の顔に吹きかかってきました。
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