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生きる意味について、モラルや常識を抜きにして、人間の欲求ベースで考えてみる。

こんばんは、ラモスたくやです。今日は生きる意味について考えていこうと思います。

以前、ニヒリズムという概念を持ち出して、生きる意味について記述したことを覚えています。その際は、「生きる意味はない、ただ、自分なりの目標(仮象)を立てて、それに向かって精一杯生きること」の重要性について書いたかと思いますが、その目標について具体的に考えていきたいと思います。もし過去の投稿が気になる際は、下の記事をご覧ください。

1.生きる意味と人間社会

※ここでのべる人間社会の状態は成熟した資本主義社会のことを差し、その中の人間も一定の生活水準を担保されているという前提で述べます。

 人間は、脳が発達しすぎているせいか、自分が生きている意味を考える特殊な生物です。植物、動物、空気、この世のあらゆる物質を挙げてもそんなことを考えているのは、哺乳類ヒト科くらいだと思います。生きるために、私たちは様々な仮象を作り出し、それを達成することによって充足感を味わるのです。そんな、複雑なことを考える人間ですが、彼らが生きるために立てる目標は一定の傾向があると思います。

 それは、目標には必ず人が絡んでいるということです。

 世界平和、大金持ち、貧困の解決、犯罪撲滅、紛争解決、環境問題の解決、オリンピック優勝、幸せな家庭を築くなどなど、様々な人間が建てた目標には必ず人が絡んできます。一見、個人的な目標に思える、オリンピック優勝や大金持ちになるという目標も人間社会が作った目標(仮像)を目指しているという点で、そこには承認欲求というものが孕んでいると考えられます。また、世界平和や貧困の解決なども同様です。人間が問題だと思っている問題(作った問題)の中で目標を立ててる時点でそこには、他者が必ず絡んできます。(こんなことを言っていると過度な虚無主義者だと誤解されるかもしれませんが。。。)

つまり、人から認められたいという欲求(承認欲求)が根底にあるというのが結論です。

 例えば、「ハンバーガーを一日100個食べる」という目標を立てる人がいるでしょうか?、また、「消しゴムをできるだけ早くなくす練習をする」という目標はどうでしょう?そんなのは意味がないと考える人がほとんどでしょう。この意味がある、意味がないという考えをうみだしているのは何でしょうか?、それも人間、社会そのものです。自分の中で勝手に人生に対して意味づけをして、その中でもがき苦しみ、悩み、葛藤を抱えているのが人間なのです。

しかし、その目標(人との関わり)なしで、人間というのは生きていけるのでしょうか?

それは、とてつもなく難しいことだと思います。それは、世の中で全く必要とされていないことをひたむきに続けるという行為だからです。上記のような行為を続けていて、誰が評価するでしょうか?、誰も評価はしません。

人間と社会との関わりに気づいていながらも、そこから抜け出すことができないのが人間の性なのです。社会なくして、人間でいることはできない。

しかし、大きな目的としては、人間は結局のところ他者に評価されるということを根本の目的として掲げていますが、その中でも細分化していく必要があります。

2.理由なき欲求の充足

 はたして、1で述べたようなことをすべての人が考えているのか、そんなことは考えていないと思います。それは、その行為自体に意味を見出している状態を指します。例えば、サッカーをするという行為に夢中になっているのは、サッカーというスポーツが含んでいる様々な要素の中で自分がすきな部分があったからこそだと思うのです。それは、シュートを入れる瞬間なのか、パスをつないだ瞬間なのか、ドリブルで相手を抜く瞬間なのか、戦術を立てているときなのかわかりません。その行為自体に意味を見出すことが人間にはできるのです。(まあ、その行為自体も人間が作ったものなのですが、その根源に対しての問いはそれを行う際に省察していないと考えられるので、等閑視します。)例えば、今この文章を書いている行為も、フォロワーが少ないこの状況で書いていても全く意味がないのですが、好きで書いているにすぎません。この議論と先ほどの議論は矛盾しているように聞こえますが、二律背反的なものだと思っています。


3.目標に対する意味づけとは?

 上記の議論を踏まえて、結びに入りたいと思います。ここからは、目標を設定するうえで「人間のやりがい、生きがい」という概念を個人的な見解によって定義していこうと思います。

 目標には、承認欲求的な側面と自己充足的な側面の両方が備わっているということは先述しました。逆にそのどちらの側面も備わっていないと人間は、自己欺瞞に陥り、生きる目的を見失ってしまうということです。また、どちらかが備わっていないとしても、いつか根本的にやりがい、生きがいというものを問い直す時が来るでしょう。

 これをやること自体が楽しい(行為自体に価値を見出す)+それが誰かに認められる(他者からの承認を得る)。これが、「やりがい、生きがい」を作り出している根源の原理だと考えられます。

もちろん、それを仕事に置き換えると業務は細分化され、楽しい業務も楽しくない業務もあるでしょう。そして、それがどの程度社会に影響を与えているのか測ることは不可能です。しかし、細分化されている業務自体に対して部分的にでも「それ自体が楽しい」と思えることをやる。また、「それが誰かに認められる」という実感を社会的な価値(社会をどこに置くかはこの際伏せます)に照らし合わせる、もしくは他者からの言説によって得ることが「やりがい」を感じるためには必要になると考えられます。


まとめとして、人間が生きるためには理由(仮像)が必要。また、その目標を立てる際に重要なってくるのは、承認欲求的な側面と自己充足的な側面です。

4.目標を立てる際の弊害

 今度は、承認欲求的な側面において、その目標を立てる際に起こる弊害について記述していきたいと思います。例えば、世界平和>大金持ちなどの価値観の構図はわかりやすいかもしれません。承認欲求的な側面において、掲げる目標によっては、その目標の優劣が存在します。大金持ちなどの利己的だと捉えられる目標は忌避されがちです。一方、世界平和など道徳的に誰からも許容されるような目標は承認を得るための障壁は一切ないと言えるでしょう。自分が大金持ちになりたいという目標を掲げたとしたら、全ての他者から承認を得ることは難しいでしょう。つまり、その目標がそれだけ社会的な価値が低いということです。それでも社会的な価値が低い目標を掲げるために、人間は必死に、他者に対して自分の正当性を証明するべく、説明をします。もしくは、自分より優れていると考えられている目標を掲げている人を嫌煙します。なぜかというと、自分の目標の社会的価値の低さを認識するということは、自分という人間の存続価値を脅かす事態だからです。そのため、できるだけ皆さんには、社会的価値の高い目標を立てることをお勧めしますが、そんな変なことを考えている人はあまりいないかもしれませんね(笑)

まあ、言いたいこととしては、社会的価値の低い目標を掲げるということは、人間にとってとても生きづらい状況であるということです。


あくまで、個人的な見解に過ぎないので暖かく見守って下さい(笑)

さすがに、3000文字近く書くとは思いませんでしたが、自分の考えをまとめることができてよかったです。





 

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