まず「書けない状態」を正しく知ろう
私はよく「書けない」になる。
とはいえ、私はそれでも書くのを辞めない。
書くのが好きで、時には辛いけど、それでも書くのは楽しいからだ。
だから、なんだかんだで、この記事(ネタ)を生み出している、今日この頃である。
とはいえ、いくら書きたいネタがないからといって、
書きたくもないコトを書くのは、なんか違うなあ。とか思ったりする。
そこで、私のスカスカな頭でウンウン考えて、あることにたどり着いた。
《”書けない”を書きたい》
言い換えると
《”書けないということ”について書きたい》
と思ったのだ。
8月31日の夜、泣きながら書いた、あの読書感想文・・・。
大学の卒業間際に、真っ青になりながら書いた、あの卒業論文・・・。
何度も書いては消して、結局書くのをやめた、あのラブレター・・・。
思えば、私の人生は「書けない」の連続だった。
「書きたい」と「書けない」の連続だったのだ。
そう考えると、私の「書く」の裏側には、いつも「書けない」がいて、
「書けない」にぶつかると、いつも「書きたい」が顔を出すのだった。
ああ、そうだ。せっかくの「書けない」時期だし、”書けない”に向き合ってみよう——。
ここから、私の「書けない」を探す旅が始まった。
◆そもそも「書ける」って、どんな状態だろう?
最初に「書ける」ときって、どんな状態かな? と考えてみた。
「はァ? そんなのネタがある時に決まってんだろォ!」
と思ったかもしれないが、まあ、もうちょっと話を聞いてほしい。
私にとって「書ける」とは、(物理的に)「書ける」ことだけを意味しない。
言い換えると、ネタがあるからといって、私の場合は、必ずしも書けるとは限らないのだ。
場所、時間、雰囲気、精神状態・・・。
そういうものが色々とうまく重なって、そうして初めて「書ける」というスタート地点に辿り着く。
実は「書ける」って、すっごくキセキみたいなことだったんだ——
私は改めて気づいたのである。
じゃあ、その「色々とうまく重なって」いる状態を教えてよ? と思うかもしれないので、
ここからは少々、私の個人的な「書ける」シチュエーションの話をしようと思う。
時間。朝か昼。あるいは真夜中。
場所。天井の高い、開放的な空間。
雰囲気。のんびり、ゆったり。
気分。落ち着いている。あるいは絶望している。
おおむね、これらの状態が、
私にとって「書ける=ノっている」状態だと言える。
もちろん、これ以外のシチュエーションでも、私は書く作業をしている。
電車の中とか、バスの待ち時間とか、布団の中とか、夕方とか。
でも、それはあくまでも「(物理的に)書ける」というだけであって、「ノっている=ベストパフォーマンス」というわけではない。
例えば、私は夕方頃になると眠くなってしまうので、なかなかアイディアが湧いてこない。だから、夕方には書きたくても書けない。
また、気分が「フツー」の時は、そもそもあんまり「書きたい!」という気持ちにならない。(逆に、落ち込んでいる時は、なぜか、「書きたい!!!」という欲求が湧いてきたりする。)
このように、「書けるか書けないか」で考えれば、大抵の時間や場所で(物理的には)書くことはできるが、
良い状態で、ベストパフォーマンスで「書く」というのは、思ったより簡単なことじゃない。
言い換えれば、「書く」という行為は、ただペンを動かす、キーボードをタッチするということ以上に、
その場所や時間、気分に影響されるんだ、ということだ。
◆ネタの観点で「書ける」とはどういうことか?
ここまでは、(環境的に)「書ける」ということを考えてきた。
ではここからは、(ネタ的に)「書ける」ことについて考えてみる。
つまり、「”ネタがある”とはどういうことか?」を考えてみる。
極端な話をすれば、「書くことがない」ということはあり得ない。
例えば、あなたが(1日に少なくとも1食でも)毎日ご飯を食べていれば、
そのメニューを記録することで、1つの記事を作れるだろう。
『私の365日間の昼食メニュー』として、立派な記事の完成だ。
また、あなたが毎日着ている服の色、ブランドをまとめて、
『2020年に着た服を全公開!』というのでも、立派な記事になる。
でも、多くの人は、これをやろうとしない。
「ああ。確かに、それは”書ける”と思う。でも、それは”書きたいこと”じゃないんだよ」
きっと、あなたはこう答えると思う。
またもしかしたらこう答えるかもしれない。
「”物理的に書ける”からといって、それを”実際に書く”とは限らないよ」
そうだ。そうなのだ。
このあたりから、「書ける」ということの実態が見えてくる。
昨日食べたご飯。昨日着た服。昨日みた動画・・・。
きっと、誰でも、多かれ少なかれ「物理的に書ける」ことはある。
でも、「実際に書ける」こと、言い換えれば「書きたいこと」がない——。
こんな状況なんじゃないだろうか?
まとめよう。
ネタを記事にする段階において、「書ける」とは、「物理的に書けるネタがあること」を意味しない。
むしろ、「自分が書きたいこと」、あるいは「読者ウケしそうなこと」があることを意味している。
つまり、色々なフィルターを通り越して、コーヒーのように、純粋な残った数滴が「書けること」として表面に現れるのだ。
物理的に書ける
↓
実際に書いて問題になさそう
↓
書いて読者にウケそう
↓
「書ける」
たとえば、こんな感じで。
◆ここまでのまとめ。「書ける」は、実は環境とネタが合わさってできている。
ここまで私がフガフガと言ってきたことを、スパッとまとめたいと思う。
できるかな・・・。
一言で言えば、「書ける=環境+ネタ」ということだ。
一般に、「書ける」というと「物理的に書ける状態である」あるいは「ネタがある」と解釈される。つまり、「書ける」という現象を「環境」か「ネタ」かのどちらか一方だけをイメージすることが多い、ということだ。
でも、(少なくとも私にとっては)「書ける」は「環境」と「ネタ」の両方があって初めてできることだ。
例えば、どんなに面白いネタが頭の中にあっても、私は狭くで息苦しい場所が苦手なので、そういう空間では、筆が進まないと思う。
逆に、どんなに心地よい空間にいたとしても、頭の中にネタがなければ、1ミリも執筆作業は進まないだろう。
このように、「書ける」という現象にとって、「環境」と「ネタ」はいわば車の両輪、鳥の両翼なのだ。どちらが欠けてもいけないし、どちらかだけではダメなのだ。
じゃあ、そろそろ「書けない」の話に移ろうか。
しばしお付き合いいただければ、と思う。
ここらでちょっと休憩しよっか。ふう。。。。。
(続く)
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