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異文化交流という言葉の違和感
現代社会においては一般論として、異文化交流は私たちに新たな視点や価値観を与えてくれる良いものとして捉えられていると思う。今はオンラインで海外の人とも簡単にリアルタイムでの交流ができる時代だ。私も高校生の頃に、オランダやバングラデシュの人々とオンラインで交流した。
言語も文化も生活様式も教育もあらゆる点で彼らの生きている世界と私の生きている世界は違っていた。表面的には。
彼らとの交流を重ねる中で、むしろ彼らと私の間には数多の共通点があると感じるようになった。言語は異なるが、自分たちの生活や価値観を語るための独自の言語を持つ。顔の表情や身振り手振りを伴って伝達をする。伝統的な食事はその地域の気候や特産物を反映している。朝起きて夜は寝るという生活をしている。
こんなこと当たり前じゃん!と言われるかもしれない。しかし、このことこそが異文化交流の本来の目的なのではないかと考えている。自分とは異なると思っていた人々が、実際は同じ人間であると知識ではなく経験として知ること。それが世間にある差別や偏見の改善・解決の一助になるのではないかとも期待している。
以上のような観点から改めて「異文化交流」という言葉を眺めてみると、その不自然さに気付いてもらえるのではないだろうか。よくある異文化交流が、”自分たちと異なる価値観や文化に触れ視野を広げる”ことを目的にしているのが腑に落ちない。それでは異文化理解が深まるどころか、違いの理解であり異なる文化を持つ人々との共生とは反対方向に行ってしまう気がしてならない。共通点を見つけることのほうが何倍も大切であり必要だと思う。