そら

写真は高校3年間を暮らした島根県の愛すべき思い出たち。

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生徒の能動的な学びのために

今も昔も高校の教師は生徒のために多様な授業を展開している。 ここでは、誰しも一度は感じるであろう「なぜあの先生の授業はわかりやすいのに、この先生の授業はわかりにくく眠気さえ感じてしまうのだろう?」という疑問について”教師の行動”に焦点を絞って考えていきたい。 全体の流れ 1,調査方法 2,生徒からの評価が高かった授業   日本史B   英語表現 3,生徒からの評価が低かった授業   世界史A         数学B 4,考察 5,提案 1,調査方法 ①私が所属するクラス

    • 一生に一度の出会いよりも素晴らしいこと

      一期一会という四字熟語に代表されるように、私たちは”一生に一度きりの出会い”というものを尊いものとして捉える傾向があると思う。確かに世界には何十億という人がいることを踏まえれば、数多の偶然が重なった結果出会えた人を大切にすべきなのは言うまでもないだろう。ただし、”一生に一度きりの出会い”よりももっと素晴らしいことがあるのではないかと感じるのだ。 それは一生に何度も出会うこと。 「なんだ、そんなことか。」という声が聞こえてくるが、その証拠に何度も出会う人には、友達とか恋人と

      • 1つのことに人生を捧げるリスク

        ”勉強一筋”とか”仕事人間”とか、この世の中には何か一つに人生をかけている人が少なくないらしい。先に挙げたような例だけでなく自分の推しであったり誰かのために時間を捧げたりする人も含めれば、かなり多くの人が何かしらを生活の中心に置いていることがわかる。 私はそのような生き方をしたことがない。それは打ち込めるものが見つからなかったからではない。何かに特化するということは、それに人生(の一部)をかけることだと思っている。大袈裟だと思われるかもしれないが現実は厳しい。幼い頃から塾に

        • コロナ禍が私たちに残したもの

          先日両親のすすめで、瀬尾まいこの「私たちの世代は」という本を読んだ。明示されてはいないものの数年前まで私が生きていたコロナ禍を題材にした作品である。この本をもとに私にとってのコロナを振り返ってみた。 私が中学生最後の1年を始めようと思うより先に、休校の知らせが目からも耳からも流れ込んできたあのときの衝撃は今でもはっきりと思い出す。突然のことで理解が追いつかないとはこのことだと妙に納得した自分が懐かしい。初めは一ヶ月もすればまた学校に行けると思って、事態を甘く見ていた。むしろ

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          大学1年生の夏休みを振り返って

          2ヶ月以上にわたる夏休みも気付けば残り10日余り。 遊び呆けることも、何かの資格試験に向けた勉強に勤しむことも、バイト三昧でお金を稼ぐことも、どこかの国に留学することも、高校時代の友達に会いに行くことも、ボランティアに参加することも、、、 自由を手に入れた大学1年生の私がデザインした夏休みは、想像もできないほど濃密で学びの多いものだった。「学び続ける教師」という理想に近づくことを大きなテーマとして、大きく3つのことに取り組んだ。 1つ目は自らが学習者になること。これは教

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          異文化交流という言葉の違和感

          現代社会においては一般論として、異文化交流は私たちに新たな視点や価値観を与えてくれる良いものとして捉えられていると思う。今はオンラインで海外の人とも簡単にリアルタイムでの交流ができる時代だ。私も高校生の頃に、オランダやバングラデシュの人々とオンラインで交流した。 言語も文化も生活様式も教育もあらゆる点で彼らの生きている世界と私の生きている世界は違っていた。表面的には。 彼らとの交流を重ねる中で、むしろ彼らと私の間には数多の共通点があると感じるようになった。言語は異なるが、

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          今を楽しむチカラ

          人間は生きている限り悩む苦しむ悶える。 今あなたが置かれている状況が極端に辛い状況でなければ、前の一文は一瞬のうちに否定されるだろう。そういうときもあるよね!くらいに流されてしまうだろう。 人間は不思議ないきもので、他人が苦しんでいるのを見てもそんなに大したことではないと思うのに、自分のこととなると途端にまるで人生のどん底に立たされたかのように感じてしまう。その時に自分の感情をそのまま顕にするのか否かでその人生は大きく異なってくると思う。 他人と関わっていれば気に入らない

          今を楽しむチカラ

          現代の大学生だって本を読む

          特に予定が無い日はひたすら好きな本を読んで過ごしている。大学の図書館に入り浸って本の虫となっている。 幼い頃から両親が沢山の本をくれたおかげで読書が大好きだ。小学校低学年の頃は図鑑が好きだった。文字が読めなくても楽しめるということもあるが、そこで得た知識を親に話して聞かせるのが面白かったのだ。高学年になると、心理学や授業づくりなど大人っぽい本に興味を持った。それを話題に学校の先生などの身近な大人と話に花を咲かせられるのが嬉しかったのだ。中学生になると、当時流行っていたアクテ

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          noteを始めたのは、小学校の先生からの言葉があったから

          日々の私のnoteを読んでいる方なら、私が文章を書くのが得意なのではなく好きなのだとわかるだろう。正直、自分の文章が読みやすいかどうかさえ自分ではわからない。まして読む価値があるものなのかと問われれば、それは読者が決めることであり私にはわからないと答えるだろう。このような自己評価をしつつも書き続ける理由がある。それはこのnoteを始めた理由でもある。 私は小学生の頃から自分の考えていることを声にして伝えるよりも文字にしたほうが上手くいく。だから文字を覚えたときから書くという

          noteを始めたのは、小学校の先生からの言葉があったから

          「死にたい」と言えること

          ネガティブな言葉を口にしてはいけない。ということは一般論として定着しているように思う。確かに、他人を傷つけたり嫌な気持ちにさせるような言葉をわざわざ口にする必要はないだろう。でも、それは他人のためであって自分のためになっているのだろうか、ということを考えてみたい。 もちろん、日常の全ての発言をネガティブなものにしようなどという極端な取り組みをするつもりはこれっぽっちもない。ただ、全ての発言をポジティブなものに強制することは各々が持つ豊かな感情を表出することを制限し、その結果

          「死にたい」と言えること

          ともに学び、ともに成長する教師

          学校で新米教師やボランティアに対して度々言われる言葉のなかに「子どもにやらせて!」という指示がある。確かに、子どもを教育するための場所で在るから教師が全てをやってしまうのは良くないだろう。しかし、私は冒頭に示した発言に違和感を覚えた。 私にとって教師は「ともに学び、ともに成長する存在」だと考えている。ただひたすらに何かを教えたり導いたりするのは私の理想ではない。もっとも私のこの世の中で一番嫌いな”言行不一致”を体現しているからであろう。だから、教えることや導くことは手段であ

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          私たちはものすごく小さな世界で生きている

          良好な人間関係を築くことが大切。 そんなことは知っているのだけれど、私は人と関わるのがあまり得意ではない。ここでは同じようなことを感じている人へのメッセージ的なものを書いてみようと思う。 私たちが生きている世界の狭さを知るには高いところから人々の住むまちを眺めてみると良い。地上数百メートルから見下ろすまちは、私たちに「あの建物の中のある部屋のある時間に一緒にいるあの人との関係に困っている」という自分の悩みがいかに限られた世界の出来事かを教えてくれる。 学校も同じ。たまた

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          自分の選択を正解にできるのは自分の生き方だけ

          この世の中のあらゆることは相対化されていると思う。 有名どころで言えば、「光があるから闇がある」「止まない雨は無い」が挙げられるだろう。Aという事象には必ずBが存在するという根拠の無い思考に我々の脳は支配されがちだ。確かにそれが辛い状況を我慢するための支えになることもあるかもしれない。ただその状況が変わらないと悟った場合、今自分が置かれている状況に価値を見出だせなくなる危険性が潜んでいる。その最たる例が社会福祉において”おりる”行為なのではないだろうか。「人の数だけ正解がある

          自分の選択を正解にできるのは自分の生き方だけ

          手紙を書かないことで失われていく感性

          最後に手紙を出したのはいつだったか覚えていますか。 去年の年賀状と答える人が一体どれほどいるのだろうか?と少し気になってしまいます。ちなみに私は8月に暑中見舞いを書きました。 最近はメッセージひとつ送るにしても数多の選択肢があります。同じ人に送るにしてもその内容の軽重によってアプリを使い分けている人も少なくないかもしれません。ただ、あえて手紙を選ぶという場面はほとんど無いように思います。 手紙に書かれる内容とスマホで送られる内容はどちらも自分が紡いだ言葉であるはずなのに、

          手紙を書かないことで失われていく感性

          読んでくれる人がいる幸せ

          noteのサービスのひとつに自分の書いた記事の閲覧数を確認できるページがある。初めて投稿した日から1年以上の月日が流れ、総閲覧数はありがたいことに6000を超えた。特に8月のほぼ毎日投稿のお陰で一ヶ月の内に3000ほど伸びた。 もちろん、私がこうしてnoteに文章を残しているのは誰かに読んでもらうためという側面はあるもののそれは主目的ではない。どちらかと言えば頭の整理のためであり、自分のためという思いがある。 それでも知らない人に自分の言葉が届けられることの楽しさや魅力は

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          「自分軸」は何のために必要なのか

          これまでのnoteで何度かこの先の目標や挑戦したいことなどを綴ってきた。それは言霊を信じているのもあるが、このような不特定多数が見る場所に宣言することでなんとなく逃げられない状況を作るためだ。まるでフーコーの「監獄の誕生」にある、自らを自らが監視する体制を整えているちょっぴり変わった人とも言えるかもしれない。 それはさておき、これまでの記述には大きく2種類の内容がある。ひとつは既に行動を起こしていて、今後それとどのように向き合っていくのかを述べたもの。ひとつはやってみたいと

          「自分軸」は何のために必要なのか