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訂正する人=自然を作為する人ルソーにならう——東浩紀氏『訂正する力』を読む

つまり、ルソーは作為と自然を単純に対立させていなかった。対立を止揚する「自然を作為する」立場に立っていた。
それはルソーがなによりも「訂正する力のひと」だったことを意味しています。もうひとつ例を挙げておけば、ルソーは晩年『告白』という自伝を記しています。彼はそのなかで、自分の人生のすべてを透明に読者の目に晒す、なにも隠さないとなんでも強調している。その率直さが後世の文学者に大きな影響を与えました。
けれども、ふつうに考えてそれはフィクションです。何十年もまえの無名の女性とのやりとりや金銭的なトラブルについて、そんなに詳細に覚えているわけがない。おそらくは多くがルソーの思い込みや創作だったことでしょう。けれどもそれでいい。なぜなら、それこそがまさに「じつは⋯⋯だった」の実践だったからです。ルソーは言わば、自分の人生そのものを訂正しようとしたのです。
ルソーは訂正する力を文学史で最初にテーマにした思想家でした。そんな彼の哲学を消極的に受容してきた日本の近代には、なにかの直感があったのかもしれません。

東浩紀『訂正する力』朝日新聞出版, 2023. p.234-235.

東浩紀氏の著書『訂正する力』よりの引用である。東浩紀(あずま ひろき、1971 -)氏は、日本の批評家、哲学者、作家。株式会社ゲンロン創業者。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。学位は博士(学術)(東京大学・1999年)。今回の著書『訂正する力』に関する過去記事(「反証可能性と訂正可能性」)も参照のこと。

哲学者の東浩紀氏が言う「訂正する力」とは、自分の過去の判断や行動、信念、意見が間違っている可能性を認め、それを修正できる能力のことを指す。これは、単なる反省や謝罪ではなく、現実の変化や新しい情報を受け入れ、それに応じて自身の考え方を柔軟に変化させるプロセスのことだ。

SNSやインターネットの普及により、人々は自分の意見を簡単に表明し、共感を得ることができる。しかし、それが間違っている場合でも訂正されることが少ない環境があり、分断が生まれやすい時代となっている。また、現代社会では、自己の意見や立場を固守する傾向が強まっている。この状況を変えるためには、自分自身の間違いを認め、他者との対話を通じて調整する力が必要であり、それこそが「訂正する力」だというのが東氏の主張である。

この「訂正する力」のことを東氏は「じつは⋯⋯だった」の実践と呼ぶ。仮説を検証し、予測可能性などをもとに妥当性が判断される理系の学問と異なって、人文系の学問は全く異なることをやっている。それは「じつは⋯⋯だった」という学問的実践である。哲学史でいうならば、「じつはプラトンが言っていたのはこういうことだった」「じつはカントが言っていたのはこういうことだった」という訂正(=批判)が積み重なっていく営みである。理系の学問は、新たな理論が生まれれば過去の理論を全く学ばなくても成立する。しかしながら、人文系の学問は、「じつは⋯⋯だった」の訂正が積み重なっていくわけなので、過去の思想についても学ぶ必要があるという違いがある。

東氏は「訂正する力のひと」の例としてジャン=ジャック・ルソーを挙げる。じつは日本はルソーをたいへん高く評価し、熱心に受容してきた国だという。『三酔人経綸問答』で知られる自由民権思想家の中江兆民は、明治初期にルソーの『社会契約論』をいちはやく翻訳している。文学においても島崎藤村をはじめ多くの自然主義作家がルソーの『告白』に影響を受けている。戦後も京都大学の桑原武夫を中心に多くの研究が行われている。

ルソーはなぜ日本で人気があるのか。東氏が考える理由は「自然を作為する」という一種の訂正する力にあるのではないかという。この「自然」と「作為」の対立のなかで、「自然を作為する」という逆説的な行為は、実は日本的なのだと東氏はいう。
戦後日本のリベラルを代表する政治学者の丸山眞男は、「歴史意識の『古層』」という有名な論文で、日本文化を特徴づける言葉として「つぎつぎになりゆくいきほひ」というフレーズを提案している。簡単にいうと、「つぎつぎ」は継続性、「なりゆく」は生成性、「いきほひ」は空気を指す。ものごとがなんとなく自然と生まれてつながっていく。そういう発想が日本の思想や政治を動かしてきたというのである。

日本は丸山が言うように「つぎつぎになりゆくいきほひ」の国である。つまり、作品を作品として提示せず、「なんとなくできあがった」ものとして作為性を隠して提示する美学が発達している。つまり日本においては「自然を作為する」の美学が発達しているのだが、ルソーはまさにその「自然を作為する」という逆説の美学を追求した作家だったわけである。

ルソーは、自然と社会のどちらかを選ぶのであれば、自然のまま生きたほうがよいと考えた思想家だった。社会のなかで生きると堕落すると考えたわけである。これは一見矛盾した主張である。ルソーは、一方で社会契約が大切だと言いながら、他方では社会なんてないほうがいいと言い続けた、大きな矛盾を抱えた思想家だった、と東氏は言う。ルソーの理解は、最終的にこの矛盾をどう解釈するかにかかっている。

そこで東氏が注目するのが、ルソーが『社会契約論』などの政治的著書と並行して『新エロイーズ』という小説を書いていたことである。ルソーは『社会契約論』で提示した民主主義の原理について、それが実際に「作為」できるということを、『新エロイーズ』によって示したかったのではないか。この二冊はほぼ同時期に出版されており、合わせて読まれるべき著作であると東氏は考える。つまり、ルソーは作為と自然を単純には対立させておらず、対立を止揚する「自然を作為する」という立場に立っていた。このことは、ルソーが何よりも「訂正する力のひと」だったことを意味する、と東氏は語る。


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