ポストコロナの神的暴力——大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』より
社会学者の大澤真幸氏と哲学者の國分功一郎氏の対談がおさめられた一冊『コロナ時代の哲学』(左右社, 2020年)より引用。まだコロナ禍がはじまったばかりの2020年に発刊されている。引用した文章は、対談の前に収載されている大澤真幸氏の論文「ポストコロナの神的暴力」からの抜粋である。
ここでは、ヴァルター・ベンヤミン(1892 - 1940)の『暴力批判論』に書かれている「神的暴力」の概念が取り上げられる。まず大澤氏は、民主主義には3つの形態があり、集会民主主義と代表民主主義、さらには「モニタリング民主主義」(ジョン・キーン)があるという。モニタリング民主主義とは、オンブズマン制度のように、市民が政治権力の動きを不断にモニターするものである。キーンによれば、モニタリング民主主義は二十世紀中頃に誕生し、最も古い例は、独立直後のインドに見られるという。そして、大澤氏の主張は、コロナ禍のような例外状態において、個人への監視が強化されるのは避けがたいとして、それに対して、一種のモニタリング民主主義で対抗すべきであるというものだ。そのとき、このモニタリング民主主義の基盤となる概念がベンヤミンの「神的暴力」ではないか、というわけである。
なぜ、ベンヤミンがおそよ100年も前に書いた書物の概念をここで持ち出す必要があるのか。それは「私たちがこの体験を通じて得た衝撃にみあったことを、知的に理解するためには、その体験や広がりや深さに匹敵する普遍的概念によって、ことがらを把握しなければならない」からであると、大澤氏は述べる。そして、監視資本主義と全体主義との類比的な関係から、モニタリング民主主義は、この神的暴力を現実化するためのひとつの方法なのであり、神的暴力の現代的活用というわけである。神的暴力によって私たちが守ろうとするのは、「私たちの本来的な不確定性や偶有性」であるという。
後半の大澤真幸氏と國分功一郎氏の対談では、コロナ禍における「例外状態の常態化」と「剥き出しの生」重視の社会に対するジョルジョ・アガンベンの批判が取り上げられる。ジョルジョ・アガンベン(1942 -)はイタリアの哲学者で、その著書『ホモ・サケル』などで、自由や権利、人格を奪われ、ただ生きている状態として「剥き出しの生」という概念を提唱した。アガンベンの「剥き出しの生」概念は、ハンナ・アーレント(1906 - 1975)の「ビオス bios」(社会的な生、政治的な生、生活形式における諸活動)と「ゾーエー zoe」(剥き出しの生、生物的な生)の概念を継承したものであり、現代社会においては「例外状態」においてビオス(社会的な生)を奪われたゾーエ(剥き出しの生)だけを生きる人間が現出する。コロナ禍はまさにそういう状態である。
大澤氏と國分氏は、コロナ禍で顕在化した「生存だけを価値として認める社会」がまさに「剥き出しの生(ゾーエー)」の社会であると論じる。アガンベンはそれに対して「死者の権利」や「移動の自由」といったビオス的なものを対抗軸として主張する。そして、國分氏は「民主主義と死者の権利を同時に考えていたところにアガンベンの重要な教えを読み取りたい」と述べる。大澤氏は、ベンヤミンの「神的暴力」が「法措定的な暴力」を超えるところ、法の外部にあるものとしての機能に注目しており、それは単にアナーキズム的な暴力ということではなく、国家が監視資本主義や全体主義的な動きをしてくるときに、それに対する市民による対抗措置として(具体的にはモニタリング民主主義などの方法によって)神的暴力を発動できるのではないか、という可能性を感じていると思われる。
ポストコロナ時代となった今、私たちの社会が「剥き出しの生」のみを唯一の価値とする社会になっていないかは、今一度点検する必要があるだろう。そして、その「剥き出しの生」に対するオルタナティブを考えていくときに、アーレント、ベンヤミン、アガンベンの思想は十分にヒントになるものと思われる。
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