本居宣長が紫式部に感じた「もののあはれを知る心」——小林秀雄『本居宣長』を読む
小林秀雄(こばやし ひでお、1902 - 1983)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。
『本居宣長』は1977年(昭和52年)発刊、小林が75歳のときのもので、彼が晩年最も力を注いだ著作である。冒頭の文章には、折口信夫と本居宣長について談じたエピソードが紹介されている。戦時中のことだったらしい。浅学を恥じながらも宣長のことをいろいろと尋ねる小林に対し、折口は別れ際にこう言ったという。「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」。源氏物語を本居宣長がどう読んだのか。このことが、有名な宣長の「もののあはれ」論を小林なりに読み解いていく鍵になったということを象徴するエピソードである。
「もののあはれ」という言葉を最初に使ったのは、「土佐日記」の紀貫之だとされる。宣長が取り上げた「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われてきて、江戸当時ではもう誰も格別な注意を払わなくなった、ごく普通の言葉だった。しかし、宣長は、この平凡陳腐な歌語を取り上げて吟味し、その含蓄する意味合いの豊かさに驚いた。宣長は特に、紫式部の「源氏物語」を研究するにつれて、この「もののあはれ」という平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。小林秀雄はこのことを「宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい」と述べている。
「もののあはれ」という言葉の意味合いを宣長はどう分析したのか。「もののあはれ」あるいは「あはれ」という言葉は、心が深く感じることをすべて意味していたという。宣長はこう書いている。「阿波礼(あはれ)という言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、情(ココロ)の深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑事」巻一)。それが、江戸時代にはすでに「あはれ」に「哀」の字を当てて、特に悲哀の意に使われるようになっていたという。その理由も宣長は分析している。人の意識は、特に「抵抗」を感じるときに現れるからだという。「すべて心にかなはぬ筋」、つまり、うまく行かないこと、どうしようもないことがあるとき、人は自分の心を見るように促される。そうしたことが、元々はさまざまな意味合いを持っていた「あはれ」という言葉が、特に悲哀を指して意味するようになったのだろうと宣長は推測する。
小林はこうした宣長の記述の仕方にも注目している。宣長は平安王朝時代の「もののあはれ」という言葉が持つ豊かな情趣自体を説きたいのではない。むしろ、「もののあはれを知る心」のほうに注目している。小林は「彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びている」と書いている。宣長にとっての課題とは、「もののあはれとは何か」ではなく、「もののあはれを知るとは何か」であった。そして、その「もののあはれを知る心」とは、「知る」と「感じる」とが同じであるような「全的な認識力」であると小林は言う。あるいは、ことにふれて直接に、親密に感ずる、その充実した、生きた心の働きと表現している。私たちが分別や知識といったもので浅はかに判断したりする前の、私たちの心が持っている豊かな感得力のことである。そうした「全的な認識」のことが「もののあはれを知る心」だと宣長は、紫式部を通して発見したのである。