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哲学の肝はアウトプットではなく思考のプロセスにある——山口周氏『武器になる哲学』を読む

評論の神様と言われた小林秀雄は、デカルトの『方法序説』について「これはデカルトの伝記である」と言い切っています。自伝、つまり「私はこのようにして疑い、考えてきた」という、「考察の歴史」を記したものだ、というんですね。これは本当にシャープな指摘で、私たちは、デカルトがどのように悩み、考えながら、最終的に「我思う、ゆえに我あり」という結論に至ったかを知ることで、初めてデカルトの「哲学」を学ぶことになるわけです。しかし、ではその考察の過程を初学者向けの教科書が紹介しているかというと、全くそうではない。程度の問題はあるにせよ、ほとんどの定番教科書は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という、有名なアウトプットを紹介し、ごく簡単にこのアウトプットがいかにすごいかということについて書いているのですが、厳しい言い方をすれば、これは一種のウチワ受けでしかありません。

山口周『武器になる哲学:人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』KADOKAWA, 2018. p.53-54.

山口周(やまぐち しゅう, 1970 - )氏は日本の著作家・経営コンサルタント。慶応義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科前期博士課程修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て、組織開発・人材育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループに参画。現在、同社のシニア・クライアント・パートナー。専門はイノベーション、組織開発、人材/リーダーシップ育成。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社新書)、『知的戦闘力を高める 独学の技法』(ダイヤモンド社)など多数。神奈川県葉山町に在住。

本書『武器になる哲学:人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』は、「役に立たない学問の代表」とされがちな哲学は、ビジネスパーソンの強力な武器になる、という趣旨で書かれた書籍。現役で活躍する経営コンサルだから書けた、「哲学の使い方」がわかる一冊となっている。

なぜ、現代のビジネスパーソンが「哲学」を学ぶべきなのか。山口氏は4つの視点からその必要性を力説する。
第1は「状況を正確に洞察するため」である。「いま、何が起きているのか」を洞察するために哲学は武器になる。例えばヘーゲルの弁証法で現在の教育革命について考えてみると、それは「新しい教育システムが出てきた」ということではなく、「古い教育システムが復活してきた」と理解することができる。

第2は「批判的思考のツボを学ぶ」ためである。過去の哲学が向き合ってきた問いは「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」と、「その中で私たちはどのように生きるべきか」という「Howの問い」の二つに整理することができる。そして哲学の思想の流れとは、こうした問いの連続だったのであり、それは古い考え方・動き方に対して「その答えや考え方ははたして正しかったのか」という批判と再検討を加えていく批判的思考そのものだったともいえる。哲学を学ぶことで、「自分たちの行動や判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して、意識的に批判・考察してみる知的態度や切り口を得ることができる、というのが哲学を学ぶメリットの一つである。

第3は「アジェンダを定める」ためである。なぜ「課題を定める」ことが重要かというと、これがイノベーションの起点となるからである。山口氏の前著『世界で最もイノベーティブな組織の作り方』では、社会から「イノベーター」と認められている人々に数多くのインタビューを実施している。そこで特徴的だったのは、必ず具体的な「解決したい課題」があって仕事をしているという点であった。イノベーションというのは、常に「これまで当たり前だったことが当たり前でなくなる」という側面を含んでいる。この「常識を疑う」ということが重要であるのはもちろん、なぜその常識が生まれたのかという論点にまで考えを及ぼし、どのような「疑うべき常識」があるのかを見極める選球眼をもつことが重要である。

第4は「二度と悲劇を起こさないために」という視点である。多くの哲学者は同時代の悲劇を目にするたびに、どのように私たちの愚かさを克服するべきかを考えてきた。マルクスは資本主義経済による悲劇について考え、サルトルは二度の世界大戦で失われつつあった私たちの実存とヒューマニズムについて考え、アーレントは全体主義による非人間的な「悪」がなぜ起きたのかを洞察した。そしてこのような「悪」や悲劇を起こしたのは特殊な人々であったのではなく、普通の人々であったというのがアーレントの洞察であった。私たちは二度と悲劇を起こさないためにも、哲学を学ぶ必要がある。

この本ではさまざまな哲学者とその鍵概念についてわかりやすく紹介されている。ニーチェの「ルサンチマン」、サルトルの「アンガージュマン」、フェスティンガーの「認知的不協和」、レヴィナスの「他者の顔」、タレブの「反脆弱性」、マルクスの「疎外」、フッサールの「エポケー」、ポパーの「反証可能性」、デリダの「脱構築」などである。それらは「使える」哲学の思想なのであるが、単に哲学者の思考のアウトプットを使うのはさして重要ではなく、彼らの「考えるプロセス」、つまりどのようにしてその結論に至ったのかの思考法を学ぶことが決定的に重要である。冒頭の引用に掲げたように、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は結論だけを学ぶなら、味気ないものであり、さして私たちには役立たない。むしろ、デカルトの思考の方法、どのようにしてそのような結論に至ったのかという思考のプロセスを学ぶことで、現代の私たちにも大いに役立つ宝のようなものが、哲学には多く隠されているのである。

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