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もっとも恵まれない者の目で考える——サルトルの実存主義と他者へのまなざし
意見を異にする人たちが、それぞれ自分こそ正しいと主張する場合、そのあいだに立つ人間はどうすればいいのだろう。『共産主義者と平和』の最終章の一節で、サルトルはその解決法として思い切った答えを挙げている。どんな状況であれ、それが「もっとも恵まれない者の目」に、あるいは「もっとも不公平に扱われている者の目」にどう映っているかを問えばよい、というのだ。まず、現状でもっとも虐げられ、不利な扱いを受けているのがだれかを特定し、その人たちの立場から見えるものを正しいとする。彼らの視点を、真実そのものの基準とみなしてもいい。それによって「人間や社会の真の姿」が浮かび上がってくる。もっとも恵まれない者の目に真実でないと映ったなら、それは真実ではないのだとサルトルは言う。
ひとつの考えかたとして、これは実にシンプルかつ新鮮である。恵まれた者たちがうそぶくお決まりの言葉を、たった一撃で退けてしまうのだから。
ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre、1905 - 1980)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。右目に強度の斜視があり、1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自らの意志でノーベル賞を辞退した最初の人物である。実存哲学の代表者。『存在と無』などの思想を、小説『嘔吐』、戯曲『出口なし』などで表現した。
サルトルは、実存主義の立場から人間の自由や責任を強調しつつ、社会の不正義や戦争に対する批判の一環としてマルクス主義・共産主義の思想に一定の共感を示していた。ただし、彼は単に共産主義の教条に従うのではなく、権威主義的・形式主義的側面に対しては批判的であり、常に個人の自由と主体性を重視していた。
1950年代の『共産主義者と平和』という著作において、冷戦下の核戦争の脅威や国際的な対立の中で、共産主義運動が単なる勢力均衡以上に、社会正義と人間の解放を基盤とした平和の実現に向けた役割を果たすべきだとサルトルは論じる。
その著書の中で「意見を異にする人たちが、それぞれ自分こそ正しいと主張する場合、どうすればよいのか」について、サルトルは以下のような意見を述べる。それは「もっとも恵まれない者の目」に、あるいは「もっとも不公平に扱われている者の目」にどう映っているかを問えばよいというのである。これはとても思い切った、しかしシンプルな解決法である。まず、現状でもっとも虐げられ、不利な扱いを受けているのがだれかを特定し、その人たちの立場から見えるものを正しいとする。彼らの視点を、真実そのものの基準とみなしてもいい。それによって「人間や社会の真の姿」が浮かび上がってくるはずだというのである。
このサルトルの考え方は、サルトル流の実存主義の考えから導き出されたものであるだろうが、やはり現象学を継承しつつ独自の「他者の倫理」を打ち立てたエマニュエル・レヴィナスやシモーヌ・ヴェイユの倫理哲学にも通じる考え方である。レヴィナスは私に語りかけてくる他者の〈顔〉からの要請と、それに対する応答責任には際限がないという。レヴィナスはその他者の〈顔〉は寡婦や弱き者として現れてくると言い、弱者に対して徹底的にケアのまなざしを注ぎ続ける倫理の哲学を提唱する。
「もっとも恵まれない者の目で」というサルトルの考え方は、レヴィナスの他者の倫理学と同じくらい革新的であり、共産主義よりも急進的である、と本書『実存主義者のカフェにて―自由と存在とアプリコットカクテルを』の著者サラ・ベイクウェルは述べている。
サルトルの斬新なやり方は多くの活動家の胸に響いた。特に1950年代から60年代にかけては、人種主義や性差別主義、社会的排除、貧困、植民地主義に反対する運動が盛り上がった。サルトルはそうした闘いの背後で尽力し、ほとんどの場合、ペンの力を使って支援した。若い作家たちの作品に序文を書くことで、アンガージュマン(社会への"参加")という彼なりの責任を果たしていたのである。