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「人間特有の生(活動)」を現実化する〈語り〉——クリステヴァ『ハンナ・アーレント講義』を読む

ハイデガーは『転回(Kehre)』の一節で思索と行為と詩の言葉を同一視していますが、アーレントはその一節とひそかに対話を交わしているように聞こえます。アーレントが本当に言っているのは、思索がソピアであっても政治的実践がともなえば、ソピアは何よりも複数の人間がかかわるプロネーシスに変化するということです。本質的に政治にかかわる思考が現実化するのは物語によるのであって、(演劇の手段であり媒体でもある)言葉それ自体によって思考がひとりでに現実化するわけではありません。こういう語る活動によって、ひとは生に呼応して、あるいは生に属する者となって、人間の生が不可避的に政治的な生となるのです。物語こそ人間の生きている最初の次元であり、それは生命(ゾーエー)でなく生(ビオス)の次元なのです。人間と生との最初の呼応が物語にほかなりません。つまり物語こそもっとも直接に共同しておこなわれる活動であり、その意味で、もっとも最初におこなわれる政治的な活動なのです。

ジュリア・クリステヴァ『ハンナ・アーレント講義——新しい世界のために』論創社, 2015. p.31

ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva、1941 - )は、ブルガリア出身のフランスの文学理論家で、著述家、哲学者、精神分析家。ユダヤ系の家庭に生まれた。ドミニコ会修道女経営のフランス語学校を経てソフィア大学に進学、ミハイル・バフチンに親しむ。卒業後フランスに移住して諸大学で研鑽を積む。特にリュシアン・ゴールドマンとロラン・バルトに師事した。『テル・ケル』グループに参加し、フーコー、デリダらとともに積極的メンバーとなり、言語理論から文芸批評、精神分析学、政治哲学など多岐にわたって活躍。パリ第7大学名誉教授、コロンビア大学客員教授。2004年「ホルベア国際記念賞」、2006年「政治思想のためのハンナ・アーレント賞」を受賞。

本書『ハンナ・アーレント講義——新しい世界のために』(Hannah Arendt: Life is a Narrative)は2001年に公刊されたクリステヴァの著書の翻訳である。本書はクリステヴァがトロント大学の伝統ある「アレグザンダー・レクチャーズ」に招かれておこなった連続講義である。クリステヴァに関する過去記事(クリステヴァの記号分析学『セメオイチケ』解説)も参照のこと。

クリステヴァは、アーレントにとって中心を占めていたのは、まさに生〔=活動〕という解明されるべき概念にほかならないという。というのも、アーレントは「思考を職業としている者」ではなく、思考を自分の生〔=活動〕の中心に据えていたからである。「人間を無用視する」(カント的な意味で)「倒錯した意志」には「根元的な悪」があるとアーレントは言う。これは言い換えると、全体主義的な人間は、自分自身の生を含め、あらゆる生の意味を根絶して、人間的な生を破壊するということである。

アーレントは、アリストテレスとともに、見事な「実践(プラクシス)」によって生に画竜点睛をほどこす特権を〈語り〉に認める。アーレントが提示する生〔=活動〕は「人間特有のもの」である。「この人間特有の生の出現と消滅が世界の出来事を構成しているわけだが、人間的生の主要な特徴は、生それ自体がつねに根本的に語られることができ、生涯の物語となる出来事に満ちていることである」とアーレントは『人間の条件』で述べている。

このように生誕と死を想像し、時間のなかにあるものとして思い描き、他の人々に説明して聴かせうること、すなわち語りうるところに、人間的な生の根源が非動物的で非生理学的な独自のもののうちにあることが示されているとアーレントは言う。ハイデガーが思考と詩作と行為を同一視したのに比べて、アーレントは物語るというプラクシスを復権させようとしている。「人間特有のもの」にもとづいて生を実現しうるのは〈語り〉である実践、つまり実践である〈語り〉だけだというわけである。

『ニコマコス倫理学』を解釈することによってアーレントは『人間の条件』では、製作活動であるポイエーシスを実践活動であるプラクシスと区別している。アーレントは作品の製作にひそむ限界に注意をうながす。つまり、労働や「作品」あるいは「製品」では、躍動する人間的経験が所定の「目的」をめざす「手段」として「使用されるもの」のうちに「物象化」されるわけである。このように理解されるポイエーシスには、人間の条件を制圧する物象化や功利主義の種子がすでに含まれている

他方、「出現の空間」あるいは「公共空間」とみられるポリスでは逆に、構築(生産)ではなく「ありうべき人間の在り方」である実践(プラクシス)が展開される。アリストテレスにおけるエネルゲイア(現勢態)という概念を使って言えば、プラクシスに含まれている活動は、特定の目標をめざすのではなく、作品を残すこともなく、「それ自身において意味に満ちている実践だけで自己完結する」活動なのである。その実践の舞台はポリスという公共空間であり、ポリスは「間にある」場所であり、「間の領域(inter-esse)」なのである。このようなモデルの基礎は「行為と言葉」にほかならず、他者がいなければありえないものである。

本質的に政治にかかわる思考が現実化するのは「物語」によるのであって、言葉それ自体によって思考がひとりでに現実化するわけではない、とクリステヴァはアーレントを解釈する。このような「語る」活動によって、ひとは生に呼応して、あるいは生に属する者となって、人間の生が不可避的に政治的な生、つまり「間の領域(=公共空間)」における意味ある生となる。物語こそ人間の生きている最初の次元なのであり、それは生命(ゾーエー)の次元ではなく、生(ビオス)の次元なのである、とクリステヴァは書いている。



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