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ルソーの「憐れみ」と孟子の「仁」の共通性——フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』を読む

根源的と言ったが、この経験が根源的なのは、二つの資格においてである。一つは、これが自然に発露することが証明しているように、わたしたちの最も根底的な経験であるということだ。もう一つは、この経験がわたしたちの道徳性の起源にあり、それ以外の道徳的な生活はこの経験の帰結にすぎないということである。この経験は、決定的かつ十分な道徳性の出発点なのだ。それは、道徳性の尽きることのない源泉である。
孟子にとって、忍びざる反応は、「人間らしさ」(儒家の用語では仁)の感情の基盤にあり、この仁の感情に道徳性が集約されている。同様にルソーも、道徳を懐疑する者をこう非難する。懐疑する者は、憐れみという「この唯一の特質に、彼が人間から奪い取ろうとした社会的な美徳のすべてが由来することを見なかった。「寛大さ」、「いつくしみ」、「人間らしさ」といったものは、「弱者や罪人そして人類一般に適用される憐れみでなければ」、実際に、何ものでもない(『人間不平等起源論』238頁)。ショーペンハウアーは、ルソーを引き継いで、「道徳における最初の現象」である憐れみは、「厳格な法の責務」の起源であると同時に「徳の責務」の起源であり、「正義」の起源であると同時に「慈悲」の起源であることを示そうとした。

フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける——孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』講談社学術文庫, 2017. p.55-56.

フランソワ・ジュリアン (François Jullien, 1951 - ) は、フランスの中国学者・哲学者・比較思想学者。エコール・ノルマル・シュペリウール出身、アグレガシオンと文学博士号所持。当初はギリシア哲学を研究していたが中国哲学に関心を寄せるようになる。1990年以降、パリ第7大学教授、パリ第8大学教授、マルセル・グラネ研究所創設者兼所長、国際哲学コレージュ議長などを歴任。

本書『道徳を基礎づける——孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(原題:Fonder la morale)はジュリアンの1996年の著作である。本書は、ルソー、カント、ニーチェといった西洋の道徳の思想を、東洋の孟子の思想と接続することで、「道徳を基礎づけること」、つまり道徳の正当性を打ち立てることを試みた一冊である。つまり、神の命令や、社会的有用性によってではなく、いったい何の名において道徳が正当化されるのかを述べることを試みている。

ジュリアンは、この道徳を基礎づけるという難題に関して、西洋と東洋の直接的な「対話」が可能であると考える。なぜなら、西洋の哲学者たちも東洋の孟子も、同じ経験から、すなわち、他人を脅かすものを目の前にした動揺から出発しているからだという。

孟子の「惻隠の情」として有名な、井戸に落ちようとしている子供の話が紹介される。孟子は、道徳という主題については多くの議論がなされたが、結局、その正しさを保証し、論証の善し悪しを区別できるのは経験だけだと考えた
その典型的な状況が、「今にも井戸に落ちようとしている子供を目のあたりにすれば、誰もが恐怖の渦に巻き込まれ、助けようと手を差し伸べる」というものである(「今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心」)。これは、「両親から多大な感謝を受けたいから」でも、「隣人や友人から賞賛を得ようとするから」でもなく、まして「悪い評判をたてられたくないから」でもない。それがいかなる計算から生じたものでもなく、いかなる反省の対象でもなく、その反応が自然になされているということである。

この例から普遍的な原則が導かれる「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。この忍びざる感情を、他者の身に起こりながら忍びうるものにまで及ぼすこと、それが「仁」の感情である。中国的な観点からすれば、道徳性にはいかなる要請もない。そこには、命令もなければ掟もない。あるのは「拡充」だけなのだ。耐え難いものへの反応を、その苦境を知りながら見てみぬふりをしていることにまで及ぼすことである。この「拡充」は、孟子の鍵となる概念である。なぜなら、道徳性とは、燃え上がる火、溢れ出す泉のようなものだからだ。

孟子が引き合いに出した忍びざる反応は、そこで描かれた状況を見るかぎり、西洋において伝統的に「憐れみ」ということで理解されてきたものと完全に一致する、とジュリアンは言う。人間の道徳性を示すために、ルソーがたえず立ち返ったのが、この憐れみの感情であった。憐れみの感情によってこそ、「わたしたちは苦しむ人たちを見て、反省する間もなくその救助に向かう」のであり、この徳は、まさに「あらゆる反省の使用」に先立つがゆえに、「それだけいっそう普遍的」なのである(『人間不平等起源論』)。

今にも井戸に落ちそうになっている子供という、孟子が挙げた事例——加えて「パトス」(このパトスは、古代から西洋において悲劇の感情を涵養し続けてきたが、中国では考慮されなかったものである)——には、次のエピソードが対応する。ルソーが例として引用した「蜜蜂物語」という寓話の中のエピソード、すなわち、「外で一匹の獰猛な獣が母の胸から子供を奪い取るのを目にする囚人という、悲愴な(pathétique)情景」である。そして、孟子と同様、ルソーも、その時、憐れみを感じた人物は、この出来事に対して「いかなる個人的な利害関心」も持っていない、と指摘する。他者の死に直面して心が深く動かされるということまで、ルソーと孟子はそっくりである、とジュリアンは言う。

この「憐れみ」において、東西両方の側で、まさに同じ根源的な経験が問題にされている。根源的というのは二つの資格においてである、一つは、これが自然に発露することが証明しているように、わたしたちの最も根底的な経験であるということ。もう一つは、この経験がわたしたちの道徳性の起源にあり、それ以外の道徳的な生活はこの経験の帰結にすぎないということである、とジュリアンは指摘する。

孟子にとって、忍びざる反応は、「人間らしさ」(儒家の用語では「仁」)の感情の基盤にあり、この仁の感情に道徳性が集約されている。同様にルソーも、道徳を懐疑する者を非難する。「寛大さ」「いつくしみ」「人間らしさ」といったものは、人類一般に適用される憐れみでなければ、実際に何ものでもない。この「拡充」こそが重要である。ルソーが言うには、「一般化され」、「全人類に広がる」ことで、この初発の心の動きは公正さへと開かれる。孟子と同様に、ルソーにおいても、「憐れみが弱さに堕してしまわないように」、「正義と一致するかぎりにおいて」のみ、人は憐れみに身を委ねるべきであるとする(『エミール』)。なぜなら、「隣人に対するよりも、人類に対していっそう憐れみを持つ」べきだからだ。


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