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「疾患」と「病い」
文學界の2024年5月号で『贅沢な悩み』連載第5回を読んだ。
内容
「客観的に見て、今の自分の状況は贅沢な悩みなんですよね」
という状況において、「客観」とは何なのかを問うためにアーサー・クラインマンの『医療人類学』を引用して書かれている。
「土着の治療者は、あつかうケースの大部分を癒す(p407)」
「土着の治療者は、病いに対して文化的に是認された治療を与えうるかぎり、まちがいなく癒すことができるのである(p409) 」
「現代の専門的な臨床ケアは、たいていの場合、まちがいなく癒すことができない(p409)」
「土着の治療者」はシャーマン。「現代の専門的な臨床ケア」は、私たちがイメージする医者を指している。
シャーマンは癒すことができるが、医者は癒すことができないと言っている。どういうことなのか。
“疾病” とは、生物学的プロセスと心理的プロセスの両方あるいは一方の機能不全をさす。それに対し、“病い“ とは、知覚された疾病の心理社会的な体験のされ方や意味づけをさす。(「臨床人類学』p80)
太字は私によるもの
「疾病」と「疾患」は同じ意味を指している。「疾患」は医者が見つけるもので、「病い」は病気が取り巻くものだ。
医者は癒すことができないというのは、病気(疾患)を治すことができたとしても、それによって起こった心理的な不安は取り除けない(癒せない=病いは治せない)。
本連載ではうつ病を例に書かれている。
「うつ」になったとき、私たちは 資本主義社会の中で心を病む。仕事を休んでしまって、収入は大丈夫か、キャリアはどうなるのかと不安に襲われる。
うつ病は治ったとしも、「キャリアが崩れさってしまった。あのときもう少し頑張っていれば…」と後悔する人はいるだろう。これを医者は治すことができない。
では、シャーマンが癒せるのはなぜなのか。それは、病いを社会の中に位置づけるからだ。
たとえば、「霊による災難」という診断は、霊的文化が息づく台湾社会や家族システムを前提として、そのような場所で「善く生きる」 ための物語を処方する。祖先や死者を大事にし、周囲の人に対して道徳的に接することを教える。そのことでたとえガンは治らなかったとしても、彼は社会が規定する「善く生きる」物語の中に置かれ続け、コミュニティの中で場所を得ることができる。孤独ではなくなるのだ。これこそが病いの物語の本質である。
太字は私によるもの
私がニュースサイトで聞く話として、
「うつ病でキャリアが終わったと思ってましたが、〇〇に出会って人生が変わりました」
ということがある。「〇〇」には仕事だったり、人だったりする。人で人生が変わるのは、「こんなダメな私を受け入れてくれるコミュニティの存在」、つまりは社会なんじゃないだろうか。
この集団でなら、私は善く生きられる。そう感じられるコミュニティの目的に出会い、私もそれに参加することでイキイキと生きられる。身近にシャーマンはいないが、コミュニティの存在がシャーマンの代わりになっているのだろう。
医療人類学は病むことと回復することを社会との関数として見る。いかに病むか、何を回復とするかは、それぞれの社会的環境によって規定される。
はじめに戻って、
「客観的に見て、今の自分の状況は贅沢な悩みなんですよね」
というものの「客観」の正体は「病い」ということになる。
自分の悩みを社会的に見たら、そんなのは悩みの内に入らないと言われる。
では、なぜ社会的に自分を見てしまうのか?
これがこれからの連載で語られるようだ。
うつ病と引きこもりの癒し方
思ったこととして、うつ病やひきこもりは「疾患」でもあり、「病い」でもあるんじゃないかと。
「疾患」としてのうつやひきこもりは治っていたとしても、それが「病い」として治らないと本人としてはどこまでいっても「自分はうつ病(ひきこもり)なんだ」と思ってしまう。
「疾患」としてのうつは、やる気がでない、食欲がない、眠れないなど。これが良くなったとしても「本当に治ったんだろうか?」と疑問が残ることがある。
例えば、「働けない期間があった」「社会不適応者なんだ」という後ろめたさ。
『Shrink〜精神科医ヨワイ〜』に登場する精神科医の弱井はうつ病患者に対して、「一度うつになったあなたはもう元の自分には戻れません」と言っている。
![](https://assets.st-note.com/img/1718176140759-XvFnpwExET.jpg?width=1200)
これは「あなたの「病い」はもう治らない(癒せない)」と言っているとも取れる。「病い」は社会の問題だけれども、社会が変わらないのなら自分が変わるしかない。また、医者である自分には疾患は治せるが、病いは治せないと言っているような場面でもある。
弱井はこの患者に対して、「新しい自分を見つけてください」とアドバイスしている。その新しい自分とは「いつかどこかに置き去りにしてきた本当の自分のことだったのか(第4話)」と患者自身があとで気づく。
これも自分が変わるしかないということを示しているのではないかと思った。
うつ病や引きこもりは社会的な「病い」であり、それを治すには何かしらの社会的な関わりでしか癒すことができない。
そのためには、多くの人が普通と思っている社会への関わり方ではなく、別の道を自分で探すしかないのだと思った。
診断されることの意味
診断は物語なのである。
「名言っぽいな~」と思いつつ、言われてみればそうなのかも?とも思う。
例えば、かぜを引いたら「最近、急に寒くなったからかな~」とか、肩が凝っていたら「昨日ずっとパソコンいじってたから」とか「ソファーで寝たから」とか「ゲームしていて力みすきだ」とか理由をつける。
何かしらの病名を診断され、「振り返れば△△なことがあった」とストーリーが作られる。その物語がハッピーエンドになるかは診断結果が正しくて元気になったかどうかに委ねられる。
この連載を読んでいて思い出したことがある。
病気と診断されて安心したいということ。このよく分からない状況に耐えられないから、安心する理由を求めて何かしらの病気であってほしいと思うこと。
おそらくこの本に書いてあると思って読み返したら書いてあった。『わかりやすいはわかりにくい?』という本だ。
おそらく以下の部分が記憶にあったところ。
ただの『鬱気分です』って言われてしまったら、あとは自分の考え方とか生き方とかに直面して、自分で取り組まなければいけない課題になってしまう。でも『うつ病』ということになれば、病人なんだから『お任せしまします』と言えば済む。受け身の立場で手当てされたい、ケアされたい、流行り言葉で言えば 『癒されたい』ということもあると思うんです
さらに、診断されたい心情としては以下のようなものだろう。
何をやってもうまくゆかない、なんか状況が塞いだままそこからうまく抜けだせないと いったとき、ひとはその理由を知りたいと必死に思う。が、鬱ぎの理由というのはそうかんたんに見つかるものではない。けれども、解決されないままこの鬱いだ時間をくぐり抜けるのもしんどい・・・・・・。ということになれば、多くのひとが、自分のこの鬱ぎを説明してくれる「物語」があればすぐにそれに飛びつくというのは、見やすい道理である。わたしがいまこうでしかありえないのは、あのときあんな体験を強いられたからだ、出生をめぐるこういう状況があったからだ。そう、いま自分がこうでしかありえないのは自分のせい ではない、あの「事件」が自分にこうした鬱ぎを強いているのだ・・・・・・というわけである。
偶然にも診断されることを「物語」に例えている。
また、本連載でも
診断を与えられることで、止まっていた時間が動き始める。 過去の因果関係が発見され、未来予想図が呈示される。そうやって、私たちの不幸にあらすじが見出されて、物語が流れはじめる。
と、診断されることで物語が進み始めると言っている。ゲームの詰まっていたストーリーがあるNPCと会話をすることで一気に進むように。
医師は癒すことができないとアーサー・クライマンは言うが、病院で診察を受けたときに「最近△△なことはありませんでしたか?」と物語の取っ掛かりになるようなことを質問してくれる。
それに頷き「あー、こういうことありました」と言ったら、「なら、そのせいですね」と診断してくれる。
例えば、がんは前ぶれもなくやってきて、気づけば「余命□年です」といきなり言われたら、物語は作られないだろう。
「え?なんで?これまで何も無かったのに、あと□年?」
ここで癒されるにはシャーマンが作る物語が必要とされる。
けれども、かぜのような誰しもは一度でもかかったことのありそう病気なら、「最近寒くなったからかな~?」というように医師でも物語を提供しているように思う。