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空っぽの中に見つける自分|鳥山まこと『アウトライン』

群像2024年11月号に掲載されている、鳥山まこと『アウトライン』を読みました。

建築メーカーに勤める平田優里の会社員生活を描いた作品です。

意見を求められても説得力のある回答ができない自分、自分の強みややりたいことが出てこない自分、それでいて、自分よりも仕事のできる優秀な後輩から褒められる自分。自分がよく分からないまま執着しているスケルトンビル企画に取り組む。

自分の「分からなさ」への共感

本書で描かれる優里の自分が分からない感覚には、私自身も共感する部分が多くありました。

キャリアシートの空欄

優里の「自分の強み」や「キャリアの目標」をエントリーシートに書けないという描写。就活のエントリーシートにしても、先輩に直された文章の方が、よっぽど自分を的確に表しているように見えて、情けなくなることが引き合いに出されている。

個人的な経験としても、近しい経験がある。他人から写し出される自分が聖人君子のように評価された。同じような評価を受けていた友人が顔をひきずりながら苦笑いしていたが。

他人の答えが正解に見えること

建築の分野で「意匠」「バランス」などを追求する中で、他人の判断が正解に思えてしまうこと。

建築という分野に進んでからずっとこうだ。意匠、バランス、組み合わせ、色合い、質感、デザイン、・・・・・・。いつだってはっきりと掴めない。他の誰かの手の中にしかその答えがないように思えた。それでも頭を捻って溺れないようにもがきつづけるが、いつになったらそこから出られるのだろうか。

P199

優里の迷いや葛藤は、自分がnoteに書いている文章にやたらと違和感を感じることや、他人の文章はスラスラと読めて、正解のように感じることに通ずる。

謎の執着心

優里がスケルトンビルに執着する姿。

「一体どうすれば企画として認められるんだろう。まだ摑めていないところがあるのかな。用途がない建物だし、だから引っ掛かりがないし、どのアイデアもしっくりこないって言われるし、スケルトンって、」
「優里さんは何でそんなにスケルトンに執着するんですか?」
「え?」
「いや、良いアイデアが出なかったり、上の人の興味が得られないならテーマを変えればいいのに。ってか単純に自分だったらそうしちゃうなって。スケルトンとか、僕ならテーマとしてそこまで続けられないです」
確かにと思った。同時になぜスケルトンなのかと言われてもすぐにはよくわからなかった。自問してみてもそれはどこか宛のない問いのように思えてしまう。

P237-238

私にとっても「なぜそこまで執着するのか」と問われても答えられない。「自分でやると決めたから」としか言えないものがある。

作品内では、「ニコリス」というテトリスの拡張版のゲームが登場する。テトリスよりフィールドが広く、ミノを落とす数が倍々になっていくゲームだ。優里はこれに執着する。

マックス・ウェーバーの『学問としての職業』では、学問を職業にするのは「他人に呆れられても一つの箇所の解釈に専念できる人」というウェーバーの言葉のように、優里の執着は「無駄」に見えるものにこそ自分を投影している証なのかもしれない。

セリフだけを取り出すと、会話の続きは以下のようになる。

「変えた方がいいのかな?」
「いや、そういうことじゃなくて」
(略)
「優里さん、学生の頃からそうでしたよね。先生に言われ ても全然変えませんでしたよね」
(略)
「最初っからずっと言われてましたけど。コンセプト、そ れどうなの?って。優里さんその時はうんうんって首を 縦に振るんだけど、次に持っていくものもプランや形状は 変わったように見えて根底のコンセプトや枠組自体は変 わっていないし。あれだけ先生に言われて変えない人、研 究室で優里さんだけでしたよ」
(略)
「やっぱり向いてないのかな」
「え?」
「こういう建築とかデザインとか、私、向いてなさすぎる かな」
(略)
「いやいやむしろ逆でしょ」
「逆?」
「うん。逆だと思いますけど」
(略)
「そこまで揺るがないの、優里さんくらいですよ」
「いや、私なんかぶれぶれだから。パネルのサンプル材も 色合いも質感も屋根材の光沢感も、正直いまだにどれが一 番良いのかわかんないし、誰かがそれを良いって言ったら 良いって思っちゃうし。笹倉くんとかそういうのわかるで しょ。揺るがない感性があって、いつでもこれって言い切 るじゃん。先生とか笹倉くんとか、そういう人が建築やる んだって、デザインやるんだって思うもん。私そういうの 本当にできないんだよ」
(略)
「そんなの全く無いですよ。わかんないですよ僕だって。 ただ条件を整理してうまい答えを言っているだけ。最初と 最後をやってるだけです。そんな間がすっかり抜けた今の自分がやってるのは建築でもデザインでも何でもないで す。というか、正直そういう自分が嫌になったんです。そ の真ん中の部分をもっとやりたいし、やらないといけない と思ったんです」
(略)
「優里さんは持っているじゃないですか。ずっと揺るがな いものを。その根源が何なのか、どういうものなのか、僕 にはよくわからないですけど。でもずっと揺るがないもの が優里さんにはあるじゃないですか。その中で間の部分を ずっとやってるじゃないですか。学生の頃も、今もずうっと」

P238-239

後輩の笹倉くんが言っている、優里こそが建築に向いていると言うのは、権威である先生に言われても、根っこの意見を変えないその頑固さを指しているのだと思う。

しかし、私目線では、他人から言われる立派なものって自分では全くどうってことがないものだったり、むしろコンプレックスに思っていることだったりする。なんとなく優里も場合も似ているんじゃないかと思う。

スケルトンビルへの執着と「空っぽ」の自分

優里がスケルトンビルにこだわる理由は、自分の「空っぽさ」を埋めたいからだと考えている。優里は、大学時代に先生から言われた「デザインは己を映しますから」という言葉がこべりつくように残っている。そして、優里は無意識にスケルトンビルを「自分」を表す象徴として見ている。

しかし、ときおりスケルトンビルに可能性を感じている描写がある。以下の3つの場面はスケルトンビルを通して、自分の存在意義を探している。

そうした濃密な建築とはまるで対照的な空間が目の前にあった。周囲に建ち並ぶ中身の詰まったいくつもの建物の中でこの空間だけが異質で、幻のようでもあった。外は全て何かに満たされていて、忙しく動き続けていて、そんな中で壁や床に囲まれたこの空間だけは何も知らないかのようにぽっかり空いたまま。それは「箱物」でありながら、 しかしまだ誰にも見つけられていない、私だけしか知らない密やかな空間のようにも思えた。

P220

何の用途も未だ無い空っぽの空間。そこに突っ立っていると異質な静けさが身体に染み入ってくる。この身体が前に進めばまとわりつく空気が連れだって動き、音も振動もこの身体からしか生まれない。私だけがこの空間で質量を持っているということがよくわかる。

P234

空洞として存在するにもこれだけの要素が必要で、壁の向こう側の何にも囲われていない大気は空洞や空っぽにはなり得ない。周囲の空気と繋がり合って境界をなくし大きな空気の 一部として呑み込まれる。床、壁、柱、梁があって初めて空になる。この場を囲う壁や床が、それを支える梁や柱が、何もない空間だからこそ際立って見えた。
ならば私自身は一体私の何に囲われているのだろうか。 私を他と区切っているのは一体何? 皮膚? 肉体? いや、感情? 感覚? いや。そうした手の中にあるようなものではないような気がした。この私を囲って私という空間を作り上げているのは何? 一体何なのだろうか。

P234-235

優里がスケルトンビルに訪れる場面では、空っぽな建物が「それは『箱物』でありながら、 しかしまだ誰にも見つけられていない、私だけしか知らない密やかな空間」「私だけが質量を持っている」と感じている。

また、自分とスケルトンビルを重ねて自分の存在意義を探している。「床、壁、柱、梁があって初めて空になる。(略)ならば私自身は一体私の何に囲われているのだろうか。」

さらには、外から見たスケルトンビルと中から見たスケルトンビルの違いについて焦点を当てている。

あのビルだって初めに外から見上げた時には内部にあんな空間が広がっているとは知らなかった。内装の施されていない空間が窓から垣間見えるだけで、実際に内部に踏み入ってそこに立ち、コンクリート剥き出しの構造体を目にしながら感じるあのひやりとした空洞はきっとそこに立った人にしかわからない。

P244

考えを広げて、有給休暇中の会社に行く。優里は、自分など忘れ去られているのではないかと思って出社する。本当に忘れてられているのか確かめに行く。

アウトライン=区切られた空間

『アウトライン』というタイトルが象徴するのは、空っぽでありながらも何かに囲われ、存在を主張している何か。それは優里の空洞の空間を保たせる要素と自分自身を他の人と区切る要素との自問自答にも表れている。

スケルトンビルに対する捉え方が後輩の笹倉くんとの会話をきっかけに変わったように思える。

「じゃあそれってさあ、私はずっと空っぽのスケルトンの中にいろってこと?」
私がそう言うと笹倉くんは再び顔を上げきょとんとしてこちらを見た。そして張られた糸が切れたみたいに表情を崩し、だから優里さんはスケルトンの企画なんですね、と言って大きく納得したみたいに笑った。口元から八重歯が覗いてた。
「スケルトンならいつだってそこから出られるし、またいつだって戻れるじゃないですか」

P239

スケルトンは、空っぽだからこそいつでもそこから出れるし、戻ることもできる。

物語のラストでは、スケルトンであることの意味がつかめたような終わり方になっている。

私から見える景色の中には何人もの他人が立ち、彼らは私を囲み、私を形取ってゆく。そうしてできる私の構造体から、私はいつだって出られるし、いつだって戻れる。目を閉じて息を吸うと肺が膨らみ身体の中に空間が現れる。柱や梁がここに組み上がっている。そんな私の中に、私はいる。

P250

自分を「空っぽ」だと感じるとき、周囲が満たされているからこそ、その空虚さに気づく。しかし、それは永遠に続く状態ではない。むしろ、空っぽであるがゆえに簡単に抜け出せる。私たちは、自分自身を形作る構造の中にいるけれど、それに縛られる必要はない。

笹倉くんが言っていた、上司に受け入れられない案をどんどん切り捨てて違う案に取り組む話や、優里から見えて上手くいっている笹倉くんでさえも、真ん中が空っぽだからこそ、何かに執着する優里が立派に見える。

笹倉くん自身が案をすぐに捨てて、あれこれ違う案を探す行動は彼自身が言っている「スケルトンならいつだってそこから出られるし、またいつだって戻れるじゃないですか」にも現れているように思う。自分の空間に戻ってきて空っぽならまた出て行く。そしてときおり戻ってくる。この繰り返しなんじゃないだろうか。

優里は自分の状況を言葉にはできないが、感覚としてそこに「何かある」と感じている。

スケルトンの企画も相変わらず良案に行き着かずにいたが、業務の隙間の時間があれば頭を捻り何かを掴むために手を伸ばし弄り続けていた。他の人が良い反応を見せなくてもそれはどこか仕方がないように思え、しかし彼らの反応や意見を無視してというのは違う。彼らに納得してもらえる企画をこのスケルトンで創り上げる。私は心に決め ていた。それは私がこれまで向き合ってきたことの答えを探す長い旅のようにも思えた。

P246

おわりに

本当は物語に社内AIの教育係を任された話があるんですが、うまくまとめられないのでカットしました。AIと対比して自分を見つめる描写もありますが、入れられませんでした。

AIにありがちな個人情報をベラベラ話してしまう内容もありました。実装当初のChatGPTにもそんな話があったことを思い出しました。

他に思ったのは、建築についてです。建築という仕事は、市の仕事なら市の作りたい未来に向かって、その場にあった建物を作ることで、そこに建築家のエゴのようなものを組み合わせて作るものなのか。はたまたスプラトゥーンのように建築家、建築会社が自分色のカラーに染めるように建築を請け負って進めていくのか。そんなことを読みながら思いました。

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