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カウンターカルチャーとしてのカトリック修道院生活

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称、『プロ倫』)に出会ったのは、『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』がきっかけだった。

今になって、燃え尽き症候群のカウンターカルチャーとして、カトリックの修道院生活を取り上げるのがよく分かる。

もちろん、著者が神学者というのもあるだろう。しかし、プロテスタンティズムの進んだ先が資本主義の強化につながったのに対して、同じキリスト教のカトリックは、依然として資本主義に完全に取り込まれていないことを対比的に書いている。

ニューメキシコの人里離れた砂漠のキリスト修道院では、ネットで写本をするビジネスを行っていたが、大評判になりすぎてこの仕事を止めた。

なぜなら、このビジネスが修道院生活を脅かし始めたからだ。仕事を回すためのシフト作成と、スキルの向上、そして長時間労働は彼らの価値観には合わなかった。資本主義社会において儲ってる仕事を自ら止めることは皆無と言っていいだろう。しかし、修道士たちは止める決断をした。

修道士にとっての仕事は、聖書に書かれていることを守るためのものであって、成果を追求するものではない。時間が来て、仕事が終わってなかったとしても、「仕事を忘れるだけ」という。この価値観の違いは、世俗社会の労働倫理とは大きく異なる。

出身国に関係なく、修道院のスケジュールと祈りが最優先されるここの生活に若い修道士が適応するには時間がかかるという。また、若い修道士は修道院での労働に戸惑いを覚えることも多いと牧師は言っていた。仕事時間が終わればそこで仕事を中断し、続きは翌日やればいいという気持ちになかなかなれないというのだ。仕事で自分を証明したいと思ってしまうのは、自分が縁を切った世界のために祈るという生活の意味をまだ学んでいないからだ。「自分の人生を捧げているのに、なんの成果も見えませんからね」とシメノン神父は言う。「それなら当然、働きたいと思いますよ」

『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』 P211

仕事時間が終わればそれで終了し、続きは翌日にする。このような価値観は、成功や成果を重視する世俗社会とは対極にある。

そうは言っても、修道院は完全に世俗と切り離されているわけではない。お金がなければ生活できないため、修道院には高い技術力を持つ修道士がいる。だが、修道士の中には、「自らの技術に慢心し、自分は修道院に何かを授けている(p212)」と感じてしまう人もいる。そうなった場合、自分が謙虚な気持ちになれるまで仕事を禁じている。謙虚になることができなくて、世俗に戻る人もいるようだ。

『プロ倫』では、カルヴァンの予定説によって、世俗内での成功が神から救われる印となることが書かれている。しかし、成功の過程で得られた富が、7つの大罪(怠惰や色欲、強欲)を引き起こす要因になってしまう。修道士にとっても、修道院のための仕事が、自らの修道士生活を惑わすことにもつながってしまう。中世から続く世俗での成功と内面的な葛藤は、現代においても変わることなく存在している。

修道院生活は、資本主義社会における過労文化や成果主義に対する鋭い批判を体現している。

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