ブクログのピックアップで気になった、くどうれいん『日記の練習』を読んだ。
noteも日記という体で書いている。けれども、自分で読み返して、「これは日記なのか…?」と呼べるものの方が圧倒的に多い。「毎日書いているから日記」と割り切ってるけれども、全然身近なことは書いていない。
冒頭で引用した「日記のあとがき」がグサッと刺さる。
書けない理由、書く理由を探してる。たとえ書けなかったとしても理由をつけて納得して、また書きたくなったら戻ってくる。
別に日記に限らずとも、理由探しをして物事に取り組むのは同じ。だけど、それを端的に話そうと思うと「ずっとなになにしています」という表現になる。パッと思いつくのは英語で、多くの人が中高と最低でも6年間は英語を習い続けている。けれども、その割には使えないと思っているのではないだろうか。果たしてそれを他人から「ずっと英語を勉強しているなんてスゴイですね!」と言われて喜べるだろうか。ぼちぼち続けながらも、対して成果のような成長のようなものを感じないことを人から褒められても特段嬉しくはない。
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日記を、自分の挑戦記録と捉える。あくまでもそれにトライしたことをまとめるもの。
日記はあとで見返せればいい。そうすることで原点に回帰する。私自身も、noteでタイピングや英語学習の記録を投稿している。新しい投稿する際には、以前の投稿を読み返して進捗を確認することもある。これも著者の定義にしたがえば、「日記」なんだろう。
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続かないから挫折する。自然とやらなくなるのではなく、「ああ…無理だ。」と自分で決めて止めるのが挫折。
以前、千葉雅也『現代思想入門』を読んだ時に、「生成変化」というキーワードが出てきた。
「あらゆる物は別の物になる途中である」という考え方です。この考えを転じて、
と考えることができるといいます。
「日記は挫折したまま、もしくは一度も書かれないまま続く(p9)」も同じように考えられます。挫折なんていうものはなく、ただ見えなくなっている、意識しなくなっているだけ。
「生成変化」においては、始まりなど元からないのだから、始まりを決めるという意識もない。だから、「止める」と線引きをする挫折はあり得ない。こう考えられないだろうか。
「日記を書き続けるようになると、大事でないことから書き残されることが増えておもしろい。(p7)」は、「なんかあったからメモっておいている」ぐらいの感覚とも考えられる。そう考えると、2人の文章を書く仕事の進め方には共通点がありそうです。
『日記の練習』の「『日記の練習』をはじめます」は以下のリンクから読めます。