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「日記」ってなんなんだろう

連載が終わると日記はすっかり途絶えた。結局のところ「仕事で書く日記」だったからだと思う。同時に、この連載がはじまるまで書いていた「自分のためだけの日記」もすっかり止まってしまって、これにはちょっと参った。仕事じゃないから続かないのか、読んでもらえないから続かないのか。仕事じゃないなら日記を書かなくていいと思ってしまったのか。昔から日記が途切れる度にすこしへこむけれど、それは書いている暇もないくらい毎日が充実している証拠でもあり、むずかしい。書くからには読まれたいという気持ちは健全だと思う。それと同時に、誰にも読まれなくてもいいから書きたいと思うことがやっぱり本物なのかもしれないなあ、とも思う。書くことは書かないことで、それならば日記において何が書かれるべきなのだろう。十一月くらいから書籍になることが具体的になってきて、そこから「本っぽい日記」になった。「本当の日記」ってなんなのだろうと思う。そんなのどこにもないのにね。

くどうれいん『日記の練習』 日記のあとがき  p248-249


ブクログのピックアップで気になった、くどうれいん『日記の練習』を読んだ。

noteも日記という体で書いている。けれども、自分で読み返して、「これは日記なのか…?」と呼べるものの方が圧倒的に多い。「毎日書いているから日記」と割り切ってるけれども、全然身近なことは書いていない。

冒頭で引用した「日記のあとがき」がグサッと刺さる。

書けない理由、書く理由を探してる。たとえ書けなかったとしても理由をつけて納得して、また書きたくなったら戻ってくる。

日記を書き続けるようになると、大事でないことから書き残されることが増えておもしろい。

くどうれいん『日記の練習』 「日記の練習」をはじめます p7

他人から「きのうはどんな日だった?」 と尋ねられて答えるようなことをわたしはあまり日記に書かない。覚えていられることは書かなくていい、だって覚えているのだから!

くどうれいん『日記の練習』 「日記の練習」をはじめます p7

たくさん書いていると、たくさんおもしろいことが見つかるだけなのに。おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増えるのだ。

くどうれいん『日記の練習』 「日記の練習」をはじめます p7

わたしは「十代からずっと日記を書いています」ではなくて「十代から日記をつけたりやめたりを繰り返しているが、日記を書きたいと思うきもちは持ち続けています」と言うべきなのかもしれない。最初こそ書けない日が続くと「さぼってしまった」と思ったものだが、次第に「わたしのような人間の日記が毎日律儀に同じように続くわけがないだろう」と思うようになって楽になった。

くどうれいん『日記の練習』 「日記の練習」をはじめます p8

別に日記に限らずとも、理由探しをして物事に取り組むのは同じ。だけど、それを端的に話そうと思うと「ずっとなになにしています」という表現になる。パッと思いつくのは英語で、多くの人が中高と最低でも6年間は英語を習い続けている。けれども、その割には使えないと思っているのではないだろうか。果たしてそれを他人から「ずっと英語を勉強しているなんてスゴイですね!」と言われて喜べるだろうか。ぼちぼち続けながらも、対して成果のような成長のようなものを感じないことを人から褒められても特段嬉しくはない。

わたしにとって日記は「日々の記録」ではない。「日々を記録しようと思った自分の記録」だ。
(略)
日記を書くことは継続力の修行ではない。日記を書こうとするあなたのことを、そのずっと先のあなた自身が一 文でも見返すことができればそれでいい。

くどうれいん『日記の練習』 「日記の練習」をはじめます p8-p9

日記を、自分の挑戦記録と捉える。あくまでもそれにトライしたことをまとめるもの。

日記はあとで見返せればいい。そうすることで原点に回帰する。私自身も、noteでタイピングや英語学習の記録を投稿している。新しい投稿する際には、以前の投稿を読み返して進捗を確認することもある。これも著者の定義にしたがえば、「日記」なんだろう。

「日記に挫折する」というのがわたしにはよくわからない。ノートがなくても、ブログがなくても、日記は死ぬまで勝手に続くものだと思っているからだ。
(略)
もしかしたら、日記に挫折すれば日記を書く人生から抜けられるとでも思っているのかもしれないが違う。生きている限り、日記に挫折した人生は続いている。あなたの日記は挫折したまま、もしくは一度も書かれないまま続く。

くどうれいん『日記の練習』 「日記の練習」をはじめます p9

続かないから挫折する。自然とやらなくなるのではなく、「ああ…無理だ。」と自分で決めて止めるのが挫折。

以前、千葉雅也『現代思想入門』を読んだ時に、「生成変化」というキーワードが出てきた。

「あらゆる物は別の物になる途中である」という考え方です。この考えを転じて、

すべては途中だし、本当の始まりや本当の終わりはない

千葉雅也『現代思想入門』 p67

と考えることができるといいます。

「日記は挫折したまま、もしくは一度も書かれないまま続く(p9)」も同じように考えられます。挫折なんていうものはなく、ただ見えなくなっている、意識しなくなっているだけ。

ちょっと思いついたことをメモしたりするのですが、そのメモをもう原稿の一部にしてしまってよいと考えるのです。つまり、「ここから本格的に書き始めたぞ」という始まりをちゃんと設定しなければならないという規範意識を捨て、なんとなくついでに取りかかって書いてしまったものを、もうそれで本番として捉えてOKなんだ、と考えるのです。そうしているうちに、なんとなく思いついたことをただ書いていけば、文章になるのです。

千葉雅也『現代思想入門』 p67
*太字は私によるもの

日記の断片がたまに姿を変えて作品の一部になることもある。わたしは仕事としてしゃんとしたエッセイを書くときに、日記をがしゃんがしゃんとくっつけて書くような作りかたをすることがある

「日記の練習」をはじめます p11

「生成変化」においては、始まりなど元からないのだから、始まりを決めるという意識もない。だから、「止める」と線引きをする挫折はあり得ない。こう考えられないだろうか。

「日記を書き続けるようになると、大事でないことから書き残されることが増えておもしろい。(p7)」は、「なんかあったからメモっておいている」ぐらいの感覚とも考えられる。そう考えると、2人の文章を書く仕事の進め方には共通点がありそうです。


『日記の練習』の「『日記の練習』をはじめます」は以下のリンクから読めます。

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