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小説の伏線について考える

私はミステリー作品が好きでよく読んでいる。

ミステリーにはアッと驚く伏線がつきものだ。売り文句としても「衝撃の結末が...!」とか「最後のどんでん返し!」とか「ラスト1行で全てがひっくり返る!」とか、とにかく伏線が回収されて読者を驚かせることに焦点が当てられている。

伏線が重要視されるのは、読者の想像を裏切ることが物語の醍醐味だからだろう。叙述トリックもその一種であり、読者が思い込んでいる前提を覆す仕掛けが用意されている。

私は伏線も大切だと思うが、それ以上に人間模様が好きだ。

犯人を追い詰めた時の名セリフや、登場人物どうしのコメディ風な関係、捜査中のどたばた劇などの登場人物のやり取りが楽しくて読んでいる。もちろん探偵や刑事の人柄がいいなぁと思って読むことも多い。いくらどんでん返しやあっと驚くトリックだったとしても、人のやり取りが面白くないと「うーん、」となってしまう。

私自身、犯人を推理しながら読むが、ほとんど当たったことがない。伏線らしきものを見つけても、それが真相に結びつくことはほぼない。

2025年1月号の『群像』で小川哲『小説を探しにいく』を読んだ。

1月号には「伏線」について書かれている。

伏線には「先の展開を予測するため」「不自然な展開を減らすため」という役割がある。前者には、「読者の予想をコントロールするためのもの」という意味も込められている。

しかし、これを示す意味は全くない。小説は、読者の予測をコントロールし、展開に不自然さを感じさせないようにすることで成り立っている。小説は基本的に出来事と伏線の連続で作られているから、ある出来事は何かしらの伏線に必ずなっている。なぜなら、伏線は小説の骨格であり、伏線がなければ小説とは言わないからだ。

この連載を読んでから、杉井光『世界でいちばん透きとおった物語2』を読んだ。

連載の影響からか、「これはミステリーの書き方小説だ!」と感じた。

たとえば、p21、p139にはミステリーの本質についての興味深い指摘がある。

『謎とその解明』がミステリの基本構造とされているのは、それが必然的に論理のアクロバットをもたらすからです。アクロバットを必要としない謎は大多数の読者が論理的に考えて答えを導き出せてしまいますから大した謎にならないわけですね。トリックが重視されるのも同じ理由です。一見不可能なものを可能にするのがトリックですから、 必ず論理のアクロバットが内蔵されています。いずれも、小説の中で論理がどんなふうに展開されて答えにたどり着くかが大事なんです」

P21

「ミステリのアイディアというのは、驚愕と納得を両立させるためのなにがしかの仕組みです。ちょっとやそっとでは考えつかない見事なものでなくてはいけないんです。今わたしがいくつか話したようなものは単なる思いつき、驚愕と納得のどちらか片方にしか寄与できない、簡単に考えつく当たり前のものに過ぎません」

P129

読者が簡単に思いつくことは論理的に追っていけば思いつくことで、納得感しか生まない。それは驚きはなく、「まあ、そうだよね」くらいにしかならない。

これは「読者の予想をコントロールするための伏線」にまんまとはまっている状態と言える。つまり、作者の手のひらの上で踊らされている。

次に以下の部分。

「ミステリですから、断言できませんよ。読者を驚かせるために『見えないところから殴る』と表されるような手段を使うミステリ作家は少なくないです。その場合、スタンダードなミステリでいかにも扱われそうな謎は目くらましに使うんですね」
(略)
「それからわたしは、作中で謎となる部分が謎としてアピールされていないのがどうにも気になります」

P129

これは伏線のように感じない描写が伏線になっている、ということ。

『小説を探しにいく』で、小川さんはミステリーを読んでいると途中で犯人に気づくことが多いと書いている。それは、「何の暗示にもなっていない文章」に着目しているからだと述べている。つまり、読者には違和感を感じさせない伏線になっていて、違和感を感じないからこそ、そこにヒントがある。だから犯人に気づく。

「それじゃあ、色々と引っかかる点が作中にありますけど、これは」
「後で伏線として回収するやり方を思いついたときのために撒いておいた布石ではないかと思います。(略)今回はひとまず引っかかりをたくさん作っておく書き方に変えたのだと思います。回収できるかどうかはわからない、あくまでも仮置きの前振りです」

P191

作品のネタバレに関わるので端的に書きますが、書かれていた伏線はすべて回収されている(と、私は思った)。

ここで言っているのは、『小説を探しにいく』の内容を踏まえると、なんてことのない描写をいくつか入れておいて、どこかの部分が回収されればそれで万事OKという意味なんじゃないかと。読者にとっては伏線になっているか分からないので、なんてことのない日常に捉えられてもいい。
(そうなると、「ここ描写って不要じゃない?」につながるわけだが、どこかさえ拾っていれば、ここの描写の必要性を証明できるからいいんじゃないだろうか)。

連載と小説から学んだのは、目先の伏線はハッタリやブラフのことが多く、読者をある特定の推理へと誘導させる役割がある。私はそこに誘導されているから、真実にたどり着けない。   

小説は「出来事と伏線の連続」という構造を踏まえてミステリーを読むと犯人が分かるのかもしれない、と思った。

しかし、トリックを見破るのはやはり困難なことで、『世界でいちばん透きとおった物語2』には、「驚かせるためには、論理の筋道のどこかに読者の考えつかないような飛躍的な展開を入れなければなりません。(p21)」と書いている。

誘導される伏線に頼ると、どん詰まりの推理になるか、引用したような面白みのない答えにたどり着き、ミステリー小説としての読後感が味気ないものになってしまう。

小川さんが言っているように、伏線になっていない箇所に注目するこトで、犯人にはたどり着けそうな気もする。こうしたメタ読みをしながらミステリーを読んでみるのはありかもしれない。せめて犯人でも当てたい意地として。

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