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書くことで世界を縮める

島田潤一郎『長い読書』を読んだ。

この本は雑誌『望星』で書かれたエッセイを中心にまとめられた本。著者の人生の一部分と本のつながりについて書かれている。

文章を書くということは、決していいことばかりではないだろう。
たとえば、目の前の風景を見て、美しいと感じ、カメラないしはスマートフォンのシャッターを押すとする。文章というのはその写真であり、スマートフォンのなかのデータであって、目の前の美しい風景ではない。さらにいえば、かつてのなつかしい記憶が往々にして一枚の写真に集約され、すり替えられてしまうように、文章もまた、本来は見えていたり、聞こえていたり、感じられていたりしたたくさんのことを、わずかな言葉と引き換えに忘却の底に深く沈めてしまう。
その意味でいえば、すぐれた文章とは、その忘却の底に沈んだ記憶をふたたび水面に引き上げるような文章のことをいうのかもしれないが、手垢にまみれた、紋切り型の文章もまた、書き手になにかを想起させることがあるはずだ。

P155~156

写真と書くことの共通点。

「思い出に写真を撮っておく」という行為はよくやりがちなこと。今はSNSに自分の近況を知らせたり、アルバムとして使ったりするために撮る人もいる。

けれども、後で見返すことは、ほぼほぼない。そんなことを思ってから、私は写真を撮ることをほぼやめた。

と言っても、読みたい本や検索したいこと、食べたいもの、買いたいものを忘れないように写真やスクショを取っている(これも気づいたら忘れていることが多い)。

さらに、撮っておいた写真を見返しても、「え、これいつの?何で撮った?」と疑問を感じることが多い。これに気づいてから本当にムダだと感じた。

写真を撮ることを、記録に残しておくことに例えている。その点、後で見返してもよく分からない写真は覚えていなくても、かまわないことだろう。

写真が記憶をすり替えると言っているが、もはやすり替えでもなんでもなく、私にとっては新しい記憶でしかない。撮った場所・機会・意図を覚えていないのだから。

同じことは、読んだ本について書くことにも言える。これは私にとって、的を得ている。自分が書いたことがさも、その本に書いてあることのように捉えることがある。

よくよ思い返せば、写真と一緒で、忘れたくないから書いている。実際に書くことで本の内容を覚えている節がある。

こうやってnoteを書いているときも、時おり「あー、あの本にこんなことが書いてあったなぁ~」と思い出して引用することが多い。

現に、『長い読書』という本を読んで、いいと感じたフレーズや文章を残しておくために書いている。

私にとって、ここに書いたことがこの本の内容と同化することは間違いない。もちろん、他にも書かれていたことはあるのだけれども、思い出せなくなっている。

「わずかな言葉と引き換えに忘却の底に深く沈めてしまう」とは核心をついている。

文章を書く前のほうが、あるいはその「紋切型の文句」を知らなかったときのほうがずっと豊かなイメージを胸に抱いていたのに、いくつかの便利な言葉と引き換えにそのイメージを失う。 先に「文章を書くということは決していいことばかりではないだろう」と書いたのはそのような 意味だ。
書くことによって見える世界や、 考えられる世界が広がるのではなく、逆に、その世界が固定化し、均質化していく。
そうしたことは、文章を書いたり、意見を発したりすることのスピードと回数が重んじられる世界において顕著なのであり、ぼくの目には、言葉や表現が均質化されているからこそ、インタ ーネットの世界はますます加速度を増し、参加者を増やしているように見える。

P159

違うブログに書いていた時と比べるとまさにそう感じていた。便利な言葉を引き換えに自分らしさが薄れた文章になっている。昔はもっと赤裸々なことを書いていて、読み返すと、顔が赤くなるほど恥ずかしくことを書いていた。

自分にそんなイメージをわかせる文章は豊かな文章と言えるだろう。情景がありありと思い浮かび、カァーっと赤面する。

それに比べると今は、考えに驚きはするが、恥ずかしくなるような文章は書いていない(書きたいとも思わなくなった)。

noteにも文章論があふれている。私もそれに飲まれつつある。SNSに投稿するさがみたいなものだろうか。内発動機が外発動機に飲まれるとも言えるだろう。

「こうするといい」「ああするといい」と言われているうちに「そうしなくちゃ」と思い込む。

最近、ChatGPTに文章の添削をお願いするようになった。これも文章論の影響だったりする。書くからには読まれたい。だが、いい面もある。添削を受けると、二重表現になっていることによく気づく。たしかにその言葉を抜かしても違和感なく読める。むしろスラスラ読める。

削らない状態が「豊かなイメージ」と言えるかもしれない。中々言葉にしずらいことを引っ張り出したのに、「無くても通じるからなくす」、そうすることで、どんどん余分な部分が切り取られる。だが、残されたメッセージは同じ。これが見える世界が固定され、均質化されると言えるんじゃないだろうか。

「ChatGPTが書いたのか?、人間が書いたのか?どちらか分からない。」

これも人間が豊かなイメージを、削って削って残ったものがAIにも書けることだった、ということだったりするんじゃないだろうか。

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