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積ん読ならぬ、積み物

『積ん読の本』を読んだが、積み物も日常生活には普通にある。何を当然のことを。

積み物は、ゴミなのか、ゴミでないのか。『積ん読の本』には、本棚の整理の大変さについて書かれている。

「使う・使わない」という概念がなく、他のアイテムと比べて劣化も起きにくいから。劣化するほど繰り返し読む本は、むしろ捨てられない。

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確かに本は、インテリアとして飾られることも多いが、大切なのは書いていることであって、内容は劣化しない。

物は汚れたり、傷ついたり、風化したりと、時間の経過によって使えたものが突然に使えなくなることがある。

この本棚の整理術は、整理収納アドバイザーによるものだが、ごくごくありふれた物の片づけ術を転用している。片づけ術と言えば、「こんまりメソッド」として有名な近藤麻理恵さんのトキメキによって断捨離の判断する方法がある。

本書でも、積ん読をしている人の片づけ術として、「縁を感じるか」が挙げられていた。見かけた時にはトキメキで買ったが、1週間後には全く響かなくなり、そのまま埋もれていった。そんな本に長い時をへて、再び出会ったときに、縁を感じるかどうかで、断捨離を行うことが書かれていた。

そもそも「積ん読」という言葉は海外には無いようで、ローマ字表記でTsundokuが使われている。同じように片づけ術も海外では、Konmariと呼ばれているほどだ。世界共通で、積読も、片づけもお悩みの1つだが、日本語がそのまま使われている。

本書とは関係がないが、どうして積ん読だけが美化され、積み物は邪険に扱われるのだろうと感じた。

本もある人から見たらゴミなわけで、それは物が捨てられずにどんどん溜まっていくゴミ屋敷と同じ状態とも言える。当然のようにどちら側の意見も「これはゴミではない!」だ。「いつか読むかもしれない本」、「いつか使うかもしれないもの」であることには変わりがない。

引用した片づけ術を参考にするなら、ゴミ屋敷にあるものは、劣化して、使えないと判断されるからだろうか。人々の意識の問題として、本は捨てにくく、物は捨てやすい(日ごろから捨てているから)から、積ん読は美化されやすいのだろうか。

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