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日常の感じた方と感情を言葉で伝えることの難しさ 『世界の適切な保存』を読んで

文芸誌『群像』で連載されていた頃から読んでいた、永井玲衣『世界の適切な保存』を単行本になって改めて読んだ。

今でも、最初に読んだときの美容室でのエピソードは忘れられません。

「今日はどうされますか」 という問いが、わたしに投げかけられる。
(略)
あれほどまでに決定的に自分がどうしたいのかについて主張しなければならない場はあまりないからだ。単にアイデアを求められているわけではない。自分がどのような自分でありたいのか、どのような仕方で他者にまなざされたいのか、そのことを宣言する時間でもある。

哲学モメント P107-108

特に後半の、「自分がどのような自分でありたいのか、どのような仕方で他者にまなざされたいのか、そのことを宣言する時間でもある。」が衝撃でした。

視点が面白い。確かに、美容室で「どんな髪型にするか」という質問は「自分がどうなりたいか」を聞く質問であるとともに、他人からどう見られたいかを聞く質問でもある。

これまでは、自分目線でしか髪型を決めることに意識が向いていなかった。けれども、それは他人にアイデンティティの一端をどう見せるかを決める場でもある。それに物事の表裏一体を感じた。

たまたま手にとった時に読んだ、このエッセイの冒頭でグッと心をつかまれ、それ以来最終回まで読み続けました。

が、改めて読み返してみると、覚えていないことが多い。というか、ほぼ初見に近い。「え?だいたい読んだことある内容だよね?」と疑たくなるほどに。

以下は日常にある、ハエと暗記について考えさせられた内容です。


ハエは社会動物?

「だってさ、人間にとっては一駅だけど、ハエにとっては宇宙レベルの移動なんだよ」

余計な心配 p199

行きつけの美容師さんとの会話。たまたま電車に一匹のハエが乗り込んでしまった。そんなハエを心配しての言葉。

さらに、ハエにも家族や家、友達がいることも心配している。

ここで私が思ったのは、「ハエって社会的な生き物なのか」と。この後に、アリが自転車のサドルについていた時は、ハエ同様に家族や友達の存在を気遣って落とす話がある。

アリは社会的な動物で、「働きアリの法則」でも有名です。アリのコロニーの内、2割はよく働き、6割はほどほどに働き、残りの2割は働かない。よく働く2割を取り除くと、残った8割の中でまた、2-6-2に分配するように数が変動する。

この働きアリの法則はビジネスでも、使われている。人間にも適応できる法則を示すアリは、社会的な生き物であることは間違いないだろう。

でも、ハエってどうなんだろうか…。

ブンブンと数匹のハエが飛び回っていることは目にするが、同じ物を群がっている姿をあまり想像できない。

むしろ一匹狼みたいなイメージがある。宇宙レベルの移動をしたところで、私たちが地球の裏側に行っても生活できるように環境が変わっても生きていけそうな気がする。他の惑星が地球と

暗記して忘却する

暗記することで、わたしは忘却した。わたしたちは、忘却した。

手渡す P245

パレスチナ問題。パレスチナの話は、複雑でテストで狙われやすい。だから、暗記して終わったことにする。

以前読んだ、島田潤一郎『長い読書』で、こんなことが書かれている。

文章もまた、本来は見えていたり、聞こえていたり、感じられていたりしたたくさんのことを、わずかな言葉と引き換えに忘却の底に深く沈めてしまう。

島田潤一郎『長い読書』

そもそも、勉強するための文章が、わずかな言葉と引き換えに物事を忘れ去られるように書かれている。例えば、「パレスチナ問題」という用語もそうだ。色々あったが、このひと言でまとめてしまう。そうすることで忘れる。

忘却されているのは、感じることだ。普通ではないと感じることだ。埃まみれの小さな腕が、転がっていると感じることだ。
だが、わたしたちには言葉が足りない。あまりにも足りないと思う。悲しい、という言葉さえ、出てこようとして、頭を引っ込める。そうではない、そうあらわすのではないと思ってしまう。言葉は、わたしたちの感情をせおうことができず、からからに乾いた言葉がそこらじゅうにちらばっている。

手渡す P245-246

感じることを言葉で表せない。表せたとしても、言葉が足りない。だから、忘却する。

適切な保存とは、それが生きたまま手渡されることまで含むのかもしれない。
(略)
言葉とはつねに他者に向けて手渡されるものだ。その意味で、言葉を手放してはいけない。言葉を失ったとしても、言葉をあきらめないことをつづけなければならない。普通じゃない、普通じゃない、これは普通じゃない。集中力を霧散させてしまうような誘惑と闘って、この感情を適切に保存しながら、手渡していくことをあきらめない。

手渡す p248

表せないから言葉にしないのではなく、それを追いかけ続けることが大切。

すぐれた文章とは、その忘却の底に沈んだ記憶をふたたび水面に引き上げるような文章のことをいうのかもしれないが、手垢にまみれた、紋切り型の文章もまた、書き手になにかを想起させることがあるはずだ。

島田潤一郎『長い読書』

『長い読書』では、すぐれた文章は、「忘却の底に沈んだ記憶をふたたび水面に引き上げるような文章のことをいう」と書いている。

言葉にできないことを追い続けて、追い続けて、その上で伝えられたことがすぐれた文章になる。つまり、忘れされた感覚を呼び起こしてくれるような文章、他者に手渡されるような文章がいい文章になる。

だが反対に、からからに乾いた文章、紋切り型の文章に対しての意見は真っ二つになっている。

島田潤一郎は、すぐれた文章で紋切り型の文章にも触れている。「書き手になにかを想起させることがあるはずだ」と。

これは、伝え手が感情を乗せたい文章を書く時になって、初めて感情を言い表す表現がないことに気づき、紋切り型の文章でしか書けないことを悟る、という意味なんじゃないだろうか。それを永井玲衣は感情を伝えることを諦めた「乾いた言葉」と表す。

保存しようとすること、それを書こうとすること、撮ろうとすること、語ろうとすることは、不可能であると後退することが、わたしたちに残された道なのだろうか。いや、むしろ、無益であると覚悟しながら、それでも身を投じていくことが、わたしたちに残された道なのではないだろうか。
それに、忘れてはならない。乏しいのは、不適切に保存されたもの、そのものではない。 手渡されたものを、受け取るわたしたちの目もまた、問題なのだ。こんな不十分な情報ではわからないと足早に立ち去ったり、過激さが足りないと愚痴をこぼしたり、あるいは過激すぎると非難したりすることが、わたしたちのあり方なのだろうか。あるいは、当事者しかわからない、経験したものにしかわからないと、謙虚に身をひそめることが、そうなのだろうか。 そう、おそらく「経験」のみが、見ることではない。経験でしかわからないこともある。 だが、経験したとしてもわからないことがある。経験しなくても、わかろうとすることはできる。

見る p254-255

さらには、言葉を受け取る私たちも、感情を乗せた文章をいかに書くことが難しいかを知る必要があり、それをどうやったら受け取れるかを考え続けていく必要がある。

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