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河合隼雄『カウンセリングの実際』
河合隼雄は1965年に日本人として初めてユング派分析家の資格を取得し、帰国後心理療法の活動を始めました。本作「カウンセリングの実際」は活動初期の著作になり、1969年に行った講演を基として1970年に刊行されています。既に50年以上が経過していますが、今なお心理療法を志す学生や、実際にカウンセリングに携わっている人たちに読み継がれている名著として名高い一冊です。
カウンセリングのねらいに始まり、「時間がかかりすぎる」などの批判、カウンセラーの態度と理論の関係など、まさに実際のクライアントを前にしたときのカウンセラーが直面し、乗り越えていかなければならない諸問題についてわかりやすい口調で説かれているのですが、何度も繰り返し説かれるのが、カウンセリングは二律背反性に満ちているということです。
クライエントの話にひたすら耳を傾けるうちに、クライエントが自己の中の可能性に気がついて問題を解決していく。この場合カウンセラーが「治した」といえるのか、それともクライエントが自分の力で「治った」といえるのか。「治す」という気持ちが出過ぎると、クライエントが自分で自分の可能性を見出すのを阻害してしまいます。かといってクライエントが自分の力で「治る」のだということに頼りすぎると責任逃れや安易に相談を受けることになってしまう。だからカウンセラーは「治す」と「治る」の間を常に揺らいでいる存在といえます。
また、クライエントが苦しい道を歩むのを自分も引き受けて共に歩もうという気持ちでいても、実際のカウンセリングは決められた時間に、決められた場所で対面するだけという、強い限定性の中で行われるもので、金銭等の直接的な支援をするわけでも、クライエントが呼んだら飛んでいくわけでもありません。こうした様々な二律背反がカウンセリングの現場にはよく入ってくるのですが、河合によればそれは「人間性の中に必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある」故となります。だからこそ、カウンセリングを通じて人間はより高次な自己の統合を実現することができるのです。
人間が二律背反的なものを必ず持つならば、理論と実際に齟齬ができるのは当然といえるでしょう。ならばいっそ理論など不要なのではないか、ひたすらクライエントの言葉に耳傾けていればよいのではないかという考えが生じても不思議ではありません。しかし、クライエントの話をきちんと受容するためには、理論を深く知ることが絶対に必要だと河合は説きます。これは私の趣味に引きつけて考えると、将棋の定跡を学ぶ意味にも通じることではないかと思われます。実際の対局で最初から最後まで定跡どおりに指し手が進むということはまずありえなくて、必ず定跡を離れた局面が出現します。しかし、どうせ定跡から離れるなら定跡を学ぶことは不要だとはいえません。定跡に囚われすぎると細かな違いに対応できず劣勢になってしまいます。しかし未知の局面に遭遇したとき、あるいは未知の局面に踏み出すとき、自身の読みを導くよすがとなるのが定跡であり、違いを深く考えることが次の一手につながっていくのです。
本書の圧巻といえるのは中盤に置かれた第5章「ひとつの事例」です。河合自身が取り組んだ、不登校の高校一年生の事例が語られていますが、これがまさに「カウンセリングの実際」が凝縮されているもので、理論と実際、人間の二律背反性の中で苦悩し取り組んでいったカウンセラー(河合)の姿が非常な迫真性をもって読者に伝わってきます。一度面談をしたが、次の日時には本人は現れず、別のときに母親がやってくる。またある時は祖父から「家に来て欲しい」と電話が入る。本来なら断るべきだが、そうすると確実に縁が切れることになる。それは仕方がないことだが、河合自身は本人と面談した際、感じが合うところがあり、好きになっているので無碍に切ることができない・・・こうしたジレンマの中で河合は思い切って家を訪れます。さらに、昼は家でずっと寝ているが夜中は自転車であちこち走り回っていることを知ったときには一緒に自転車に乗って話を聞いたりしています。まさに体当たりので取り組みです。
また、ようやく本人が登校の意志を持ったとき、行きたいと思っても朝どうしても目が覚めないから、先生の家で徹夜したい(家では家族に反対されるため)と、河合の家にやってきました。そのとき河合は心理療法の講義のための準備をしていたのですが、そのノートに「クライエントとむやみに親しくなることを避けるべきである」と書きながら、実際に自分がやっていることに苦笑せざるを得なかったことも書かれています。これこそ「カウンセリングの実際」と言える逸話ですが、こうした紆余曲折を経て、河合は自分が相手にしているのは本人だけではなくて、家族全体なのだ、ということに気がついていくのです。
このクライエントが最終的にどのように自己の可能性を見出していったのかは、ぜひ本書にあたって欲しいのですが、自分がもっと優れたカウンセラーなら、こうした(家を訪れることなど)ことをしなくてもよかったのだが、と思いながら理論の枠を超えていく様は不謹慎な言い方かもしれませんが、実にスリリングです。一歩間違えれば自分も危うくなってしまうことを知りつつ、相手の状況と自己の力量を見定めて、間違っていることは承知しているが、ここはこうするしかないのだと踏み込んでいく、命がけの取り組みに胸を打たれずにいられません。
河合隼雄の著作で最も人口に膾炙しているのは、新潮文庫の「こころの処方箋」でしょう。そこには「ふたつよいことさてないものよ」や「善は微に入り細にわたって行わねばならない」という標語的な章題の下、ユーモアと含蓄を湛えた文章が綴られています。あとがきにはここには「常識」が書いてあるのだ、と書かれていますが、その「常識」とはこうした河合と数々のクライエントの真摯な、深いかかわりの中から生み出されてきたものに他なりません。「ふたつよいことさてないものよ」など、まさに人間が二律背反性を持つものだ、という認識を端的に示しているものではないでしょうか。河合は文化庁長官を務めた最晩年になってもクライエントとの面談をやめることはありませんでした。徹頭徹尾臨床の場に立ち続けていたからこそ、河合の言葉は時代を超えて私たちに響いてくるのです。本書はカウンセリングに携わっていなくても、河合の児童文学に関するエッセイや子ども論の背景にあるものをより深く理解したい読者にとって有益な一冊となるはずです。