同じ状況に怒る人と怒らない人の違いは?(悩みをなくす論理思考2.0)
この記事の内容を動画にしました。(2024/1/3追記)
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「同じ状況について、怒りを持つ人とそうでない人がいる」ということがよくあります。今回はその点について考えていきます。
なぜ同じ状況に怒る人と怒らない人がいるのでしょうか?
「怒らない人の方が心が広いから」と言うこともできそうですが、それは話を単純化させすぎていて、そこから教訓を得ることができません。怒らなくなるためのテクニックを得るために、深く分析してみましょう。
「事実判断」と「当為判断」
分析するにあたって、「事実判断」と「当為(とうい)判断」という言葉を使っていきます。
「当為」はあまり一般的に使われない言葉ですが、意味は「あるべきこと、するべきこと」です。難しく考える必要はなく、「『〜べき』は当為」と覚えれば大丈夫です。
「友達が約束を破った」と判断することは、事実判断でしょうか?当為判断でしょうか?これは「友達が約束を破った、という事実がある」ということなので、事実判断になります。
「友達との約束は守るべき」という判断はどうでしょうか?これは「〜べき」という形ですので当為判断になります。
以前の記事(第1章 part1 「許せない」のストレスを回避せよ!)でも書いたように、何かを許せないと思う時には、自分が思う〝あるべき状況〟があります。つまり、「許せない」と思う時には必ず「〜べき」または「〜べきではない」という当為判断をしていることになります。
まずは事実判断のズレを確認
同じ状況について「ある人は許せないと思っているのに、別の人は怒っていない」というズレがある時には、当為判断「〜べき」がズレています。そして、当為判断は、事実をどのように認識しているかという事実判断「〜という事実がある」に強く関連しています。事実判断がズレると、その影響を受けて当為判断がズレてしまい、さらにその結果として「ある人は許せないと思っているのに、別の人は怒っていない」という状況が起きてしまいます。
このため、「ある人は許せないと思っているのに、別の人は怒っていない」という時には、まず事実判断がズレているかどうかを確認することが大事です。
事実判断「〜という事実がある」のズレを調べるためには、その状況に関する事実の詳細をできる限り列挙し、それぞれが知っているかどうかを確認する方法が良いでしょう。「友達が約束を破った」という状況の場合は、約束の内容、約束した時の話し方などがその状況に対する詳細な事実となります。
事実の詳細を知っているかどうかで、「許せないかどうか」「怒るかどうか」が変わることがよくあります。ズレが発生した場合には、まず事実の詳細について「知っていることと知らないこと」を確認してみましょう。
つぎに当為判断のズレを確認
事実判断の詳細、つまり「詳細な事実について知っていること」が一致しているのに、「ある人は許せないと思っているのに、別の人は怒っていない」という場合には、当為判断「〜べき」がズレています。このズレを治す方法を考えましょう。
約束を破った友達を許せない人は「友達との約束は守るべき」と思っています。一方、約束を破った友達に怒っていない人は「友達との約束を破ってもよい」と思っています。「べき」の否定は「てもよい」です。(前回の記事「第1章 part2 反対したい?それとも、否定したい?」参照。)
約束について、どの程度まで厳しく守るべきかというのは、その約束の内容や、約束をした人との関係性などによります。この「約束の内容」「人との関係性」は事実判断です。その事実判断がそろった上、「この約束は守るべきか」というのを判断するのが当為判断になります。「正午に駅に集合する」という約束だとすると、「何分遅刻したか」というのが事実判断で、「何分の遅刻まで許せるか(何分までに来るべきか)」が当為判断です。
当為判断は、その人の価値観によってなされるものです。価値観はその人の性格や個性、家庭環境、生活してきた地域の文化などによって大きく変わります。当然、価値観による当為判断の結果も様々になります。
例えば、沖縄は「何の連絡もなく1時間遅刻するのも当たり前」といった時間に対しておおらかな地域の文化を持っています。そのため、沖縄出身の方とそうでない方では、遅刻に対する当為判断は変わってきます。また、大阪には関東に比べて日常的に「アホ」と言う文化があります。なので、大阪出身かどうかで、他人に「アホ」と言っていいかどうかという当為判断が変わってきます。
性格・個性・家庭環境・地域の文化などが人それぞれの価値観を作るので、その価値観によってなされる当為判断も結果は人それぞれになります。なので、当為判断の結果がズレて「ある人は許せないと思っているのに、別の人は怒っていない」という状況になるのも、ある程度はしかたがないことです。ですが、人と人とが連携して生きていく人間社会では、複数人の当為判断をある程度揃える必要が出てきます。そのために、当為判断の基準が必要です。
「〜するべき」という当為判断の基準として「常識的であるかどうか」「普通はどうするか」「それをするのが当たり前かどうか」ということが使われることが多いですが、「常識的」「普通」「当たり前」というのは少し曖昧な基準なので、それを採用しすぎると「常識とは何か」「普通とは何か」「当たり前とは何か」という部分がズレてしまい、「あの人が考える常識と、この人が考える常識との違い」などによるトラブルも起こりえます。「常識的」「普通」「当たり前」というのはなるべく避けて、下記のように具体的な基準を採用するのが望ましいです。
これらのどれかを採用すると、複数人での当為判断がズレることが比較的少なくなります。しかし「このうちどれを採用するべきか」というのもまさに当為判断「〜べき」であり、人の価値観によって決められるものなので、どれを採用すべきかは、どういう人がその場にいるのかにより、ケースバイケースです。一概に「こういう場合はこうである」と決めることは難しいです。ですが、上記のような「具体的な基準」のリストを頭に入れておき、選択肢を冷静に吟味することで、冷静に当為判断を行うことができるかと思います。
事実判断と当為判断それぞれのポイント
見てきたように、事実判断と当為判断とでは考える時のポイントが変わります。
「事実判断をズラさない」「当為判断をズラさない」という両方の点に注意を向けることが大事です。どちらか一方だけに注目してしまうと、もう片方がズレていた時の修復が困難になります。事実判断と当為判断の両方を冷静に確認するように心がけましょう。
あとがき(というか詳しい方への言い訳)
今回書いている分野について、実はあまり詳しい知識を持っていません。「僕自身がこの分野について何が分かっていて何が分かっていないのか」をはっきりさせるためにも、書くことにチャレンジしてみました。
今回の記事を書こうと思ったのは、かつてウィキペディアの「ヒュームの法則」のページを読んで感動したからです。ヒュームの法則については恥ずかしながらウィキペディアに記載されている内容しか把握できていません。深掘りができていない状況です。
ヒュームの法則の本筋である「『である』から『すべき』が導出できない」という話について触れようと最初は思っていましたが、調べていくうちに、導出できるかできないかについて議論が分かれているということが分かったため、「『である』と『すべき』を区別しよう」という話に留めました。
本シリーズは「前提知識がない人にも理解できる内容にする」がコンセプトであるため、わかりやすさ重視で、「事実」や「当為」という言葉を使わずに、「である」と「すべき」という言葉で話を進めようと最初は思っていました。しかし、「なぜ『約束を破った』が『である』なのか、語尾が違うではないか」という問題に当たってしまい、「事実」「当為」という言葉を使って進めることにしました。
いくつかのサイトを見ると「存在と当為」「事実と価値」がそれぞれ対の概念として使われていそうでした。本記事のような「事実と当為」という対比はあまり使われていないのかもしれません。「事実と当為」という対比を使った理由は、消去法です。「存在」は一般用語としてはちょっとつかみどころがないため使わないことにしました。「価値」は「美しい」みたいな概念も含まれてしまい、今回の記事の「すべき」だけで話を展開したいという目的に合致しなかったので、やめました。
「当為」は一般的には使われていない言葉なので使うかどうか迷いましたが、書いていくうちに、むしろ便利な概念なので「一般的にもこの言葉を積極的に使うようにした方がいいのでは」と思うようになりました。「当為」という言葉は今は哲学用語のような扱いのようですが、この言葉を使えば仕事論のようなことも上手く整理できるのではないでしょうか。「事実を並べただけでは人は動かせないから感情に訴える必要がある」というような話とか。そのうち考えてまた記事化してみたいと思います。
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