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【13年目の真実】宮城県の復興、どこまで進んだ? データと事例から振り返る復興の軌跡

記事に利用している画像は「復興庁」の資料から切り抜いたモノを使っています。

引用:宮城県の復興の現状 -東日本大震災から13年-

こんにちは!今回は、東日本大震災から13年が経った宮城県の復興状況についてお伝えします。「もう13年も経ったの?」と思う人もいれば、「まだ13年しか経っていないの?」と感じる人もいるかもしれませんね。では、宮城県の復興は実際どこまで進んだのか、一緒に見ていきましょう!

被災状況を振り返ってみよう

まずは、宮城県がどれほどの被害を受けたのか、おさらいしてみましょう。

  • 死者数:10,571人(震災全体の約半数)

  • 行方不明者数:1,215人

  • 全壊家屋:83,005棟

  • 半壊家屋:155,130棟

数字を見ただけでも、その被害の大きさが伝わってきますね。特に、宮城県の死者数は震災全体の約半数を占めていました。

住まいの再建はどうなった?

さて、これだけの被害を受けた宮城県。13年経った今、住まいの再建はどこまで進んでいるのでしょうか?

仮設住宅の状況

震災直後、多くの人が仮設住宅で生活を送っていました。最も多かった時期には、なんと12.4万人もの人が仮設住宅で暮らしていたんです。でも、今は仮設住宅に住んでいる人は、たったの12人(8戸)になりました!しかも、この12人は宮城県外からの避難者なんです。宮城県民で仮設住宅に住んでいる人は、もういません。

災害公営住宅と宅地の整備

では、仮設住宅から出た人たちは、どこに住んでいるのでしょうか?

  • 災害公営住宅15,823戸(計画の100%)が完成

  • 民間住宅等用宅地8,901戸(計画の100%)が完成

つまり、新しい家を建てる場所も、公営住宅も、必要な数がすべて用意されたということですね。

まちづくりはどう変わった?

住む場所ができても、まちの形が変わってしまったら生活は大きく変わりますよね。宮城県では、「災害に強いまちづくり宮城モデル」として、地域の特徴に合わせた新しいまちづくりを進めてきました。

県北部(気仙沼市~石巻市北部・東松島市)

この地域は、リアス式海岸で平地が少ないんです。そのため、津波の勢いが大きく、内陸部まで建物が流されてしまいました。ここでは、「高台移転」と「職住分離」を基本にしています。つまり、住宅は高い場所に移し、仕事場(産業エリア)は別の場所に作るということですね。

県南部(石巻市南部・松島町~山元町)

こちらは低い土地が広がっている地域です。安全な高台が近くにないので、別の方法を考えました。ここでは、「内陸移転」と「多重防御」を基本にしています。多重防御って何?と思いますよね。これは、防潮堤や盛り土した道路、防災林などを組み合わせて、何重にも守る仕組みのことです。

具体例を見てみよう!

女川町の場合

女川町では、中心部の家屋の約9割が被災してしまいました。そこで、駅を中心にコンパクトな町をつくることにしたんです。

  • 駅前に商業エリアを集中

  • 漁港の近くは産業エリアに

  • 住宅は高台に移転

こうすることで、人口が減っても活気のある町を目指しています!住人からしても、街がコンパクトになることで生活しやすくなったはずです。

名取市閖上地区の場合

閖上地区では、「多重防御」を取り入れました。

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