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タイムスリップは突然に〜しあわせを呼ぶフラッシュバック〜

四月は嫌いだ。

母が旅立ったのが、この四月だったから。
春は過ごしやすくて好きな季節ではあるんだけれど、四月が来るたびに毎年せつなくなって、ちょっと胸が痛くなる。

四月は「出会いの季節」じゃなくて「別れの季節」。
母を失ってから、私のなかで「四月」の意味は一変してしまった。

あれからもう、10年も経つっていうのにね。
あの日の記憶が、いまもまだ鮮明に残ってる。
まるで昨日のことのように、まざまざと記憶がよみがえるんだ。

あのとき目にしたもの、耳にしたもの、会話の内容、接した人の声や表情、そのときに抱いた感情。
光景も空気も匂いも手触りも。
すべてが生々しく、私の身体じゅうにまとわりついて離れない。

この鮮明すぎる生々しい「記憶」に、どうしようもなく囚われてしまうこともある。

これは、ASD(自閉スペクトラム症)に多いらしい。
いわゆる「フラッシュバック」とか「タイムスリップ現象」とかいうやつだ。

過去と同じレベルの不快感や怒りを感じながら過去の出来事を思い出し、今のことがまったく考えられなくなる現象を「タイムスリップ現象」といいます。フラッシュバックと違う点は、フラッシュバックは「嫌な記憶の再体験」、タイムスリップ現象は「過去の記憶を完全に想起して感じる」ことです。

またフラッシュバックは強い引き金になる出来事がありますが、タイムスリップ現象は引き金になることがなくても、不快だと感じた記憶が脳内で勝手に再生されます。

『みんなの障がい』より引用(https://www.minnanosyougai.com/article1/omoidasiikari/

ネガティブな記憶は、特に残りやすい。
これは障害のない一般の人でも、感情をともなう出来事は忘れにくく記憶として定着しやすいというから、よくあることだろう。

しかし、我々のこのような「過去の出来事を記憶する能力」は、その比ではない。

これが起こると、まるで時が戻ったかのような錯覚に陥る。
あたかもリアルタイムで、現実の世界で起こっている出来事であるかのように、それを体験する。
自分がいまそこに存在していて、そこで動いているような、そんな感覚。

まさに「タイムスリップ」、そのものだ。

あまりに生々しいもんだから、寝る前なんかにうっかり嫌な出来事を思い出してしまうと、苦しくなって眠れなくなる。

そうならないために、寝る前には「ネガティブなことを考えない」「刺激のある情報を目に入れない」ことが鉄則なのだ。


久しぶりに、母の形見のオープンハートのネックレスを身につけて出かけた。
胸元に、微かにひんやりとした心地よい触感。

マンションのロビーを抜けてドアを開けると、やわらかい風が頬を撫でる。
歩道へ出ると、やさしい陽射しが目に飛び込んでくる。
まぶしさが苦手な私は、目を細めながら駅へと向かって歩き出した。

春だなぁ。

こんな穏やかで清々しいくらい気持ちのよい天気の日には、身も心も軽くなるものだ。
その瞬間、ある光景が私の頭をふっとよぎった。

「そういえば、あの子はいまどうしてるんだろう」


私の住んでいるマンションに、いつも気持ちのよい挨拶をしてくれる人がいる。

30代前半と思しきお母さんと、まだ幼い兄妹の3人家族。
顔を合わせたら挨拶を交わす。ただそれだけの関係なので、正確な家族構成は知らない。

その家族と、エレベーターで何度かいっしょになったことがある。

扉が開くと同時に、元気ハツラツとした声が聞こえる。
「おはようございまーす!」
気持ちのよい挨拶をして、3人はエレベーターに乗り込んでくる。

お母さんはお兄ちゃんを幼稚園に、妹ちゃんを保育園に送り届けるらしい。朝から忙しいのに、なんとも活気にあふれたお母さん。私は会社へ行くだけでも、朝からこんなにしんどい顔をしているのに。

そんな私でも、こんなふうに挨拶をしてもらえただけで、憂鬱だった気分がどこかへふっ飛んでいく。

たった一言。それなのに、このパワー。
挨拶って、すごいよな。

このマンションにはもう長く住んでいるが、この家族以外に、きちんと挨拶を返してくれる住人はいない。
まったく無視されるか、顔を合わせることもなく俯き加減でボソッと挨拶される感じ。

きっと大阪人ではないのだろう。私はそう思うようにしている。
「大阪人であれば、このリアクションはあり得ない」と思ってしまうのは、私の勝手な決めつけだろうか。

挨拶は、コミュニケーションの基本だ。

子どものころから、学校でも家庭でも「きちんと挨拶をしましょう」と徹底して教育されてきた。
それは昭和も平成も令和も関係ないと思うんだけど、どうだろう?

しかしながら、こんなエラそうなことをぬかしている私も、昔はまったく挨拶のできない人間だった。
だからこそ、この家族の姿を見て、感心せずにはいられなかったのだ。

大の大人がこのザマだというのに、こんなちっちゃい子がしっかり挨拶できるなんて。すごいな、えらいな。
きっと、親御さんのしつけがいいんだろうな。
うん、そうに違いない。

私なんて、20代前半くらいまでコミュ障すぎて、まともに人と喋れなかったし、挨拶すらできなかったのに。

近所の人や、家に遊びに来てくれるお客さんに挨拶できなくて
「ほら、ちゃんと挨拶しなさい!」
って、お父さんとお母さんによく怒られたっけ。


「おはようございまーす!」

ある日の朝も、3人はいつものように元気な挨拶をして、エレベーターに乗り込んできた。

少年が、エレベーターの行先ボタンの前にさっと移動した。
私のちょうど目の前に立っている。

それだけが、いつもと少しだけ違う光景だった。

ほどなくしてエレベーターは1階に到着し、扉が開く。
すかさず少年は「開」のボタンを押し、母親と妹を先に行かせた。

ふたりをしっかりと見届けた少年は、キッとした表情で振り向き、こう言った。
ボタンを押したまま、私のほうをしっかり向いて。

「どうぞ!」

ちいさな紳士の男前なエスコートを受け、思わず圧倒されてしまった私。

「うわー、うれしい! ありがとう!」

めっちゃビックリした。
だけど本当にうれしくて、それは心から出た言葉だった。

これだけ言うのが精いっぱいだった。
あまりに感激しすぎて。

あぁ、私のバカ!
大人として、もっと気の利いたこと言えんかったか!?
せっかく話ができるチャンスだったのに。

咄嗟にうまく言葉が出てくれなかった。
そう、私は、予想外の出来事に対処するのが苦手なASDさんなのです・・・


あぁ、それにしても。
すっかり「してやられた」なぁ。
40も年下の殿方にね。

うん、あれはきっといい男になるなぁ。
将来が楽しみだ。

みんな、こうして大人になっていくんだね。
まったく赤の他人の子なのに、まるで我が子のように、その成長をうれしく思った。

日本もまだまだ捨てたもんじゃないな。
なんて、ひとりでニヤニヤしながら歩く私。

会社へと向かう憂鬱なはずの足どりも軽く、その日は一日、しあわせな気分で過ごした。


それからコロナ禍で在宅勤務になり、外出機会が減ってから顔を合わすことがなくなった。
あの家族は、元気で暮らしているのだろうか。
いまもまだ同じマンションに住んでいるのか、それもわからない。

だけど、彼の名前はきっと忘れないだろう。
肩からさげた黄色いカバンに、ネームプレートが付いていた。
そこに書いてあった名前は、しっかり目に焼き付いているから。

ちょうどいまごろは、小学校の高学年くらいかな。
大きくなってるだろうな。
いい子に育ってくれてたらいいなぁ。

また会いたいな。
もしまた会えたら、今度は私から話しかけてみようかな。

フラッシュバックもタイムスリップも、悪いことばかりじゃない。
楽しい記憶も、うれしい記憶も、私はたくさん持っているんだから。

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ソラノカナタ⭐️言葉をあやつるアーティスト
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