最強純血アスペルガー誕生 〜帝王切開と発達障害の関連性はいかに?〜
3,500グラム。
「小さく産んで大きく育てるのが理想」だとよく言われるが、私は大きく生まれて小さく育った。
新生児の平均体重は3,000グラム程度だというから、3,500というのは相当でかい数字だ。
しかも女の子なのに。
これにはひとつ、ある理由がある。
そもそも、私は5月に生まれる予定だった。
しかし、出産予定日から2週間を過ぎても一向に出てくる気配がない。
このままでは母体も胎児も危ない。
ということで、やむなく帝王切開での出産となったのだ。
福岡市内にある小さな町の診療所で、私は産声をあげた。
私が最も苦手とする、梅雨の時季に。
「医者の腕がなかったけん、帝王切開するハメになったったい。他の産婦人科に行っとったら帝王切開せんでもよかったとに。小さい診療所やったけんね。あれは失敗やったばい」
当時のことを、父はこんなふうに語っていた。
そう、私は帝王切開で生まれたのだ。
「お腹を切るときに、肉の裂ける『バサッ』っていう音がしてね。全身麻酔じゃなくて部分麻酔だったから、ちゃんと意識はあって。お母さんの耳にはその音がしっかり聞こえたのよ」
大きくなって、母からたびたび聞かされた話。
母のお腹には、決して消えることのない大きな大きな傷跡があった。
「あんたはお母さんのお腹を切って出てきたのよー。ほら、これ見て!」
そう言って、母は私にお腹を見せる。
この話をするときの母は、いつも笑っていた。
母は偉大だな。
こんなにしんどい思いをして、私を産んでくれたことには本当に感謝しかない。
しかも私は第一子。
初めての出産がいきなりこんな難産で、どれだけ大変な思いをしたのだろう。
なのに母はこれに懲りることなく、私の後に4人もの子どもを産んだのだから、ものすごいパワーだなと敬服せずにはいられない。
平均身長よりずっとずっと小さい140数センチの、あのちっちゃい身体のいったいどこに、そんなパワーが潜んでいたのだろう。
帝王切開で出産すると、その後の出産もまた帝王切開になるパターンが多いと聞くが、私以外の4人は自然分娩で生まれた。
だから余計に、「あんたはこうやって生まれたのよー」と母から言われてしまうわけなのだが、私はそれが嫌だとは感じなかった。むしろ、うれしいくらいだった。
そういう特別な生まれかたをしたことで、そのぶん母とのつながりが強いような気がしたから。
しかし、出産予定日から2週間も経ってるのになかなか出てこない、ってさぁ。
生まれる前から、どれだけのんびりした子だったんだよ、と我ながら思う。
よっぽどお母さんのお腹のなかが、居心地よかったのかな。
ずっとここにいたいって、そう思ってたのかもしれないね。
それからずーっと後になって知ったことだが、帝王切開で産まれた子どもには発達障害と診断される子が多いらしい。
もしかすると、このときの帝王切開が、私の脳に何らかの影響を与えたのかもしれない。
産道を通って産まれる経腟分娩と帝王切開とを比較すると、自閉症スペクトラム障害と診断される頻度が高いという興味深いデータがある。
特に女児のほうが顕著なのだというが、これは男児が女児に比べて自閉症スペクトラム障害と診断される頻度が高いため、帝王切開の影響が小さかったと考えられるという。
【参考資料】
https://www.u-toyama.ac.jp/wp/wp-content/uploads/20230720.pdf
出産とは、母と子の最初の共同作業だ。
「普通」の子は、お母さんの産道を通って生まれてくる。
それがこの世に生まれてくる子に与えられた、最初のおしごと。
私はそれができなかった。
人生のスタートから、私は「普通」のことができなかった。
私の人生は、ことごとく「普通」から外れた人生だ。
「普通」にあこがれて、「普通」になんとか近づこうとがんばって、それでもやっぱりどうしても「普通」にはほど遠くて、手が届かない。
でも、それもいいか。
いまとなってはそう思える。
「普通じゃない人生」。
これこそが「私らしい人生」なのかもしれない、と。
* * *
この物語は、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)という発達障害を併せ持ち、幼少期から現在に至るまで、ありとあらゆる困難にぶちあたりながらも前を向いて生きる、ひとりのアスペルガー女性の半世紀を綴る半生記である。
当事者の方はもちろん、
当事者のご家族や同僚、その他関係者の方々、
発達障害についてよく知らないという方、
発達障害についてなんとなく偏見があるという方、
そして、何かしらの生きづらさを抱えたすべての人たちに、捧げたい。
「発達障害のことを、もっと多くの人に知ってほしい」
「書くことで、生きづらさを抱えた人たちの力になりたい」
自身の発達障害を公にさらしてまで、自分のことを詳しく書こうと思い立ったのは、このような想いがあったからだ。
それから発達障害にまつわる情報発信や執筆活動を開始し、長年の念願であった作家デビューも果たした。
そして、父と母へ。
私を「もの書き」の道へと導いてくれた、偉大な祖父へ。
もう一度、逢って話ができたならいいのだけれど、それはもう叶わないから。
こうして書くことで、あなたたちへ伝えたい。
あの遠い遠い、遥か空の彼方へと届くように。
そんな想いを込めて、私は書く。
「ソラノカナタ」という私の名前に、その想いはしっかりと込められている。
アスペルガーとして私がどのようにして生きてきたのか、これを余すところなく書き綴ることで、きっと誰かの学びにしていただけるはずだと私は強く信じている。
そして、超前向きアスペルガーな私のポジティブマインドを受け取っていただけたら、この上なくうれしい。
なお、私小説風に描いていくが、これから書くことはすべて実話である。
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