わかりづらい愛の表現
夏、久しぶりに父方の祖母の家を訪ねた。祖母は長男(つまり私の父の兄)と二人で暮らしていて、祖父は五、六年前に他界していた。私の両親と妹、父と一回り歳の離れた叔父とその妻と子どもたちが集まった。
祖母は少し、というかだいぶ変わっている。どう説明すれば伝わるだろうか。祖母の家には時計が五つくらいあってすべてが違う時刻を指しているとか、白い猫を五、六匹飼っていて見分けがつかないというのでそのうちの一匹の額に緑の油性ペンで眉毛を描き足しているとか、そんなことを言えば伝わるだろうか。少なくとも、世の中のイメージするおばあちゃん像とは完全にかけ離れている。料理や掃除はまったくしないし、小さな子どもには興味がないように見える。成人している孫にはよく話しかけるが、かわいい真っ盛りのニ歳児や五歳児には目もくれない。ちなみにビールが大好き。
祖母の家の居間に入ると、箪笥の上にある祖父の遺影が伏せてあるのに気がついた。これ倒れてるよ、と私が声をかけると、祖母は不思議な笑みを浮かべて言った。
「なんだか、お父さんにずっと見られているようで、気味が悪くてねえ。倒しちゃった」
そんな人いるんだ、と私は思った。
めちゃくちゃな時計に囲まれた居間に座って、祖母となんでもない会話をした。祖母は祖父との出会いの話や恋人時代の思い出話を聞かせてくれた。その話ぶりで、祖父の存在を今でも大切に思って懐かしく感じているのが伝わってきた。
現実世界の人間の感情の表れ方はこうも複雑なのかとあらためて思った。祖母は愛や寂しさを、傍目にはわかりづらいかたちで表現していたのだ。
遺影を見たくないのはもしかすると、夫がいないことをまだ受け入れられないからかもしれないし、生き生きとした眼差しが好きだったのに写真の中にはその面影を感じられなくて寂しくなるからなのかもしれない。
私は何十年も連れ添った人の永遠の不在を経験していないので、想像が及ばない。いや、その二人が過ごした時間をこの世のだれ一人として同じように経験していないので、きっとだれにも理解不能だろう。
昔あるアイドルグループのメンバーが自らの意思で亡くなった。そのグループの別のメンバーが葬儀で涙を流さなかったというので、人々からバッシングを受けていた。苦楽を共にしてきた仲間なのにおまえは悲しんでいないのか、冷たい人だ、とアンチたちは叩いた。
でもそれは間違っている。悲しくて涙が出る人もいれば、悲しくて表情が凍りつく人もいるからだ。愛しているから毎日遺影に話しかける人もいれば、愛しているから遺影を伏せておく人もいる。
親戚の集まりに小さな子どもがいると、みんなの関心が自然とその子に向かう。子どものかわいらしい一挙一動に、大人は優しい言葉や笑顔を投げ返す。子どもが好きではない祖母はその場に退屈しているように見えた。
帰り際、まだ小さい孫が屈託のない笑顔で「おばあちゃん大好き」と祖母に抱きついた。その一瞬、祖母のかたい表情が少しやわらいだように見えた。それはよく注意しなければ見落としてしまうような、とてもわかりづらい愛の表現だった。