【科学者#003】2度も裁判にかけられた敬虔なカトリック教徒の科学者【ガリレオ・ガリレイ】
色々な科学者が居ますが、宗教裁判にかけられたとして有名な科学者と言えばガリレオ・ガリレイではないでしょうか。
敬虔なカトリック教徒だったガリレオが、なぜ2度も裁判にかけられなければいけなかったのでしょうか。
ガリレオ・ガリレイ
名前:ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)
出身:イタリア
職業:物理学者、天文学者
生誕:1564年2月15日
没年:1642年1月8日(77歳)
研究内容
物体落下の法則
同じ高さから落下したものは、違う重さでも同じように地面につくという法則です。
このことの証明として、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、同時に着地するのを見せたという話があります。
しかし、これはガリレオが実際行った実験ではなく、ガリレオの弟子が作り上げた話ではないかと言われています。
振り子の等時性
ガリレオが大学生時代発見したもので、ふりこの長さが一定なら時間は同じというものです。
つまり、ふりこのふれ幅やふりこの重さは、ふりこが一往復にかかる時間には関係ないというものです。
このふりこの等時性は、ピサ大聖堂で揺れるシャンデリアを見て発見したという話が有名です。
しかし、これもガリレオが実際行った実験だという記述はなく、あとになって誰かが作った話ではないかと言われています。
慣性の法則
すべての物体は、外から力を加えられない限り静止し続け、運動している物体は等速直線運動を続けるというのが、慣性の法則です。
慣性の法則に関しては、ガリレオやデカルトがはじめ発表し、ニュートンが基本法則としてまとめ「運動の第一法則」として発表しました。
この法則に関しては、ニュートンの運動の法則のひとつとして有名かもしれませんね。
生涯について
ガリレオは敬虔なカトリック教徒でした。
ちなみに敬虔とは、うやまいつつしむ気持ちの深いさまで、特に神仏を深くうやまい仕えるさまのことを言います。
ガリレオは、そこらの神父よりもキリスト教について深く理解していたと言われています。
実は#002で紹介したケプラーとも知り合いで、手紙を通して交流をしていました。
ケプラーとガリレオの共通点と言えば、もちろん『地動説』ですね。
地動説を理解する同志として交流を持っていたみたいです。
大学生まで
ガリレオと言えば数学の知識も豊富名だったのですが、数学の才能は若い時に開花します。
父親の友人でリッチという人がおり、その人から数学を教えてもらい数学者として立つことを心に決めます。
しかし、父の希望で医学を学ぶために18歳の時ピサ大学へ入学します。
ただ、ガリレオはそこで医学よりも、数学や科学の方に興味がわいてしまいます。
そしてアルキメデスを心から尊敬し、アリストテレスの哲学に疑問の目を向け始めます。
3年ほどピサ大学で医学を勉強していましたが、父親の仕事がうまくいかずに退学してしまいます。
大学退学後
色々とありガリレオは1589年24歳でピサ大学の教授になりますが、3年で退職します。
この時ガリレオは、アリストテレスを批判し大学側と衝突しています。
1592年27歳のときにパドヴァ大学に就職します。
このパドヴァ大学時代にガリレオは、面白いことに副業もしています。
ひとつは、計算尺に近い道具を考案し、数千個売りさばきます。
さらに、下宿も経営していました。
下宿に学生を住まわせて下宿料を取り、同時に学生の家庭教師も引き受けます。
しかも、料理好きのガリレオが自ら料理を作り食べさせていたみたいです。
ちなみに料理は、学生からお金をもらわなかったので儲からなかったみたいです。
他にも学生向けの教科書も書いていました。
天体観測
1609年にオランダで望遠鏡が発明されました。
ガリレオはそれを聞き、自分で望遠鏡をつくり天体観測をはじめます。
1609年には、月の表面がデコボコであることを発見します。
さらに天の川が恒星の集まりであることを発見します。
1610年には、木星には4つの衛星があることを発見します。(ガリレオ衛星)
そして、太陽に黒点があり、太陽が自転していることを発見します。
さらに、金星の蝕も確認します。
これらの発見は、コペルニクスの地動説の裏付けにつながっていきます。
宗教裁判
1615年ガリレオは、ドミニコ修道会士ロリーニと地動説について論争になりました。
そのことでロリーニは、教皇庁検邪聖省にガリレオの地動説は異端であると訴えます。
1616年に裁判が行われ、第一次裁判判決では『以後このような学説(地動説)を支持したり、弁護したり、教示してはならない』という文章がガリレオに渡されました。
しかし、ガリレオがもらった文章には、最後の『教示してはならない』が抜けていました。
同じ年の1616年には、法王庁は地動説禁止の教令を発布しています。
その後、1632年『天文対話』を出版します。
この出版に対して、ガリレオは出版許可をもらっていました。
しかし半年後発売禁止になってしまいます。
そのうえ、前回の第一次判決の『教示してはならない』に引っかかったため、2回目の裁判にかけられます。
1633年第二次裁判判決によりガリレオは、フィレンツェ郊外に幽閉されてしまいます。
晩年
1638年太陽を望遠鏡で観測したこともあり、両目を失明します(この前の年片目を失明しています)。
その後は弟子のトリチェリがガリレオの言ったことを書きとり(口述筆記)、1638年に「新科学対話」という本を完成させ出版します。
そして、ガリレオは1642年亡くなります。
ガリレオの家系図
ガリレオが生きていた時代は、大学教授は結婚をすることができませんでした。
(大学と宗教が密接にかかわっており、宗教上の理由のため結婚できない)
ピサ大学やパドヴァ大学の教授だったガリレオも例外ではないので正式な結婚はしていませんが、実は内縁関係の女性がいました。
ガリレオにはマリアという内縁の妻がいました。
そして二人の間には3人の子どもが生まれます。
そのうち、2人の娘は修道院に入ります。
息子のヴィンツィオは、晩年ガリレオが両名を失明したときに執筆の手助けをしたりしています。
ガリレオ・ガリレイという科学者とは
ガリレオは2度も宗教裁判にかけられてしまいますが、ガリレオ以前にも科学と宗教の対立はありましたが、この時代を皮切りに激化していきます。
むしろ、まだガリレオの時代はそれほど罰則としては厳しくなく、第二次裁判判決後の幽閉も監禁でなく軟禁状態でした。
科学と宗教、科学と政治の問題はいつの時代も科学者に困難をもたらします。
真実を真実と言えないもどかしさがあったのではないでしょうか。
宗教との対立を防ぐために死後出版した科学者もいます。
伝えられなければいけないことを伝えられなかったりと、色々嫌がらせもあり、そして裁判にかけられたガリレオですが、両目を失明してもなお最後まで自分の伝えたいことを残してくれました。
そんなガリレオの生き様は、大きな力に屈することなく最後まで自分の正しいことをやり続ける大切さを教えてくれる気がします。