【科学者#070】たった1票の差でノーベル賞を受賞できなかった、周期表をつくった科学者【ドミトリ・メンデレーエフ】
化学の勉強をする上で大切になってくるもののひとつとしては周期表があります。
これは、元素を並べたものになるのですが、高校生の化学のはじめの授業で周期表の前半を覚えた人も多いのではないかなと思います。
この周期表はある科学者によって提唱されるのですが、最初の頃は他の科学者たちからは受け入れられませんでした。
今回は、たった1票の差でノーベル賞を受賞できなかった、周期表をつくった科学者であるドミトリ・メンデレーエフを紹介します。
ドミトリ・メンデレーエフ
名前:ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ
(Dmitrij Ivanovich Mendelejev)
出身:ロシア帝国
職業:化学者
生誕:1834年2月8日
没年:1907年2月2日(72歳)
業績について
メンデレーエフは、それまでに発見されていた元素を並べることで、周期的に似た性質の元素が現れることを確認し、元素周期表を提唱しました。
そもそも周期表とは、左上から原子番号順に並んでおり、元素は原子の電子配置に従って並べられています。
そのため、似た性質の元素が規則的に並びます。
メンデレーエフは1869年にこの周期表を提唱するのですが、最初は科学者かちから受け入れてもらえませんでした。
しかし、新元素が発見されることで周期表は徐々に受け入れられていき、その後様々な科学者によって改良され今の形になります。
生涯について
メンデレーエフは、西シベリアのトボリスクで、14人兄姉の末っ子として誕生します。
14歳の時には、中学校の校長をしていた父親が亡くなったので、1849年にサンクトペテルブルクに移ります。
1850年には高等師範学校へ進学します。
1855年には、クリミア半島のシンフェロポリにある中等学校の博物館の教師として赴任するのですが、クリミア戦争中だったため講義はありませんでした。
そのため、すぐにオデッサのリシュリュー・リセに転任になります。
1856年には、修士論文の審査のためにサンクトペテルブルクに戻ります。
1859年から1861年には、ハイデルベルク大学で気体の密度についての研究を行い、そこではロベルト・ブンゼンやグスタフ・キルヒホフらと出会います。
1861年にはロシアに戻り、1862年4月には結婚します。
1864年には、サンクトペテルブルクの高等技術専門学校の化学の教授になります。
そして、1865年4月にはサンクトペテルブルクの技術化学の員外教授に任命され、同じ年の12月には正教授になります。
1867年10月には、技術化学から一般化学の講座にうつります。
そして1869年2月17日に、メンデレーエフは原子量とその化学的特性の関係についてを考えていたのですが眠りに落ちてしまい、夢の中で元素が原子量の順に並んだ表を見ます。
その後、目を覚ましたメンデレーエフは即座に夢で見た表を紙にかいたと言われています。
そして元素を原子量の順番に並べると、化学的特性が周期的に繰り返されているとことを発見します。
1869年3月6日には、ロシア化学学会で「元素の性質と原子量の関係」を発表するのですが、メンデレーエフの周期表の考え方は発表当初は受け入れられませんでした。
実はこの時、メンデレーエフは周期表に空欄をつくって元素の存在を予言しています。
そして、空欄の元素が発見されるたびに、メンデレーエフの研究は評価されていきます。
1875年にはポール・ボアボードランによりガリウム、1879年にはラース・フレデリク・ニルソンによりスカンジウム、1886年にはクレメンス・ヴィンクラーによりゲルマニウムが発見されます。
1890年には、サンクトペテルブルク大学の学生の奨学金増額を大臣に要求したのですが拒否されたため、抗議をして大学を辞職します。
その後は、海軍の依頼で無煙火薬を研究し、1891年までにピロコロジオン(Pyrocollodion)を発明します。
1892年には、王立協会の外国人会員に選出され、さらに度量衡局の所長に任命されます。
1906年には、ノーベル化学賞にノミネートされるのですが、たった1票の差でフランスの化学者であるアンリ・モアッサンに敗れてしまいます。
ちなみに、メンデレーエフの死後である1955年には、メンデレーエフの功績を称え、101番の元素をメンデレビウムとつけられます。
メンデレーエフという科学者
イギリスのウィリアム・ラムゼーは、メンデレーエフに会ったときの印象として、
「髪はぼうぼう、一本一本が勝手な方向に伸びている」
と言っています。
この事から、メンデレーエフはあまり身なりを気にしない人であったことが分かります。
周期表の考えを発表したメンデレーエフですが、当時の化学者はこの考えを受け入れられませんでした。
しかし、予言した元素が発見されるたびに徐々に評価されていき、ノーベル賞まで後一歩のところまできたのですが、1票差で敗けてしまいます。
実は、メンデレーエフと日本にはちょっとした縁があります。
息子であるヴラジーミルは海軍少尉として、長崎に1891年から1892年に数回寄港しています。
その時、日本人のヒデジマ・タカさんとの間に娘のフジが誕生し、メンデレーエフが養育費を送っていたんです。
今回は、たった1票の差でノーベル賞を受賞できなかった、周期表をつくった科学者であるドミトリ・メンデレーエフを紹介しました。
この記事で少しでもメンデレーエフに興味を持っていただけると嬉しく思います。