#1 唯識の思想
"唯識の思想"を読了。
今年読んだ本のメモもnoteに徐々に移管していく。
この本はかなり面白かった!
ここまで分かりやすく平易な表現で唯識思想を学ぶ事ができるとは感激。
日頃の自分自身の思考のベースになっている点が多く、改めて自分自身についてメタ認知するきっかけになった。
特に印象に残った箇所は下記の3点。
■私たちが認識する世界は「ある」のではなく「なる」のである
■他人や自分をも苦しめる我執をしばらく無くして、物事を観察してみると別の世界が見えてくる。そして、他者があって自己があるという「理」に気づく。この「理」を仏教では「縁起の理」と呼ぶ。
■二分法的思考を終焉させよう
この本は今後何度も振り返るべき内容が多い良書!
以下、学びメモ。
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・世界には具体世界と抽象世界の2つがある。前者は一人一人が自ら作り出した世界であり、後者は言葉で語られ、しかも人間同士が「ある」と認め合った、いわば抽象的世界。そして我々は、この具体的世界から抜け出すことは出来ない。
→具体世界とは心の中の世界であり、抽象世界とは心の外の世界であると考えられる世界。
・心はいわば絵師の如く、自らの心をキャンパスにして、その上に「感覚」と「思い」と「言葉」との3つの色を用いて様々な絵を描いている。まさに心が織りなす複雑な世界、それが私たちが認識している世界のこと。
・8つの識(=八識):
①五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)→5つの感覚。それぞれ固有の対象を持つ。
②意識→五識と共に働いて感覚を明瞭にする。言葉を用いて概念的に思考する。
③末那識→真相に働く自我執着心。表層の心が常にエゴで汚れている原因となる。
④阿頼耶識→一切を生み出す可能力を有した根本の力。
・とある人を憎いと思ったとしても、「憎い人」という人は決して存在しない。その人そのものは、本来は「憎くくもなく憎くないこともない」いわば無色の人であるが、私が私の思いと言葉で憎く色付けをしてしまうのだ。→★このように、私たちが認識する世界は「ある」のではなく「なる」のである。★
・★「念・定・慧(え)」★:
念→心の中にある影像なりイメージを明瞭に記憶して、それを消し去ることなくいつまでも思い描き、維持し続ける能力のこと
定→二元的対立がなくなった、静まり返った心のこと
慧(え)→定心の上に、自己の思いや言葉が消え去った「あるがままにある世界」が映し出されてくる心の動きのこと
・★阿頼耶識縁起→表層の行為のありようは深層の阿頼耶識に影響を薫じる、すなわた種子を植え付ける。★
・一つは”自分”への執着、もう一つは”もの”への執着の2つが苦の原因であり、この2つの執着を”我執・法執”と言う。
・★他人や自分をも苦しめる我執をしばらく無くして、物事を観察してみると別の世界が見えてくる。そして、他者があって自己があるという「理」に気づく。この「理」を仏教では「縁起の理」と呼ぶ。★
→実体概念(自分は自分で他人は他人)ではなく、関係概念(全ては関係)でものごとを観察していくようにしよう。すると、私たちは今よりももっと自由に、柔らかく人々の中で生きていくことができる。
・相縛と麁重縛という2つの束縛が完全になくなって、心全体がいわば清浄で丸い大きな円鏡の如くになった時、その中に存在そのものがありのままに、その如く現れてくる。この静まり返り、完全に清浄になった心を「菩提」と言い、その中に現れた「その如くにあるもの」と「真如」と呼ぶ。
・「自分への執着をなくす→縁起の理が見えてくる」「ものへの執着をなくす→真如の理が見えてくる」
・★自由に活動できず爽快でない原因を、唯識思想は阿頼耶識の麁重縛に求める。表層心と深層心とは相互因果関係にあり、「相縛」と「麁重縛」との2つの束縛によって心が表層的にも深層的にも束縛され、自由で爽快ではないメカニズム、すなわち、阿頼耶識縁起を理解し、この阿頼耶識縁起の理に関して、まずは表層心の束縛からの解脱を目指す以外に方法はない。★
・唯識思想は真理に至るには4つの段階を経なければならない:
①正しい師に出会う
②師の教えを正しく聞く
③聴いたことを理に即して思考する
④真理に至る
・「道理」から入って「真理」に至る。言葉による論理的な思考から入って、最終的には言葉や論理的な思考が終焉する、そういう世界に飛び込んでいく。これが仏道のプロセスではないか。
・★二分法的思考を終焉させよう★
→「ものでも心でもない」という見方が重要である。本当に人間は、二つの管を通してしか存在を見ることができない。「あるかないか」「同一か異なるか」「自たか他か」「ものか心か」と、二つに分けてものごとを分別しているが、それ自体を取り払った先に「存在そのもの」が見えてくる。
・”末那識を転じて平等性智を得る”
・三性とは「存在の三つのありよう」のこと:
①遍計所執性→言葉で語られ、しかも執着されたもの
②依他起性→他に依って生じたもの
③円成実性→完成されたもの
・私たち一人ひとりの阿頼耶識の中に汚れた種子がたまり、身心が重くなっているからであると唯識思想は考え、その重い身心を「麁重の身心」と言う。これに対して阿頼耶識から汚れた種子が消滅し、深層から清浄になったとき身心ともに爽快となり、かつ自由に活動することができるようになる。これを「軽安の身心」と呼ぶ。
・一つの存在には両面があることを「仏は二諦でもって法を説く」と言う。
→法とは教え、二諦の諦とは真理という意味で、世俗諦(自他が対立している表の世界)と勝義諦(自他の対立がなくなったあるがままの世界)のことを指す。
→この勝義諦の世界に住むことができて初めて、一切が心の現れであり、かつ夢であるということをしることができる。
・★ヨーガとは、静かに座ると言うことを想像するが、決してそれだけではなく、いわば真理や真実を追い求める生活全体を指している。ヨーガの四種は下記が挙げられる。★
①信
②欲
③精進
④方便
・★自分を変革する力として唯識思想は①正聞薫習②無分別智の2つを考える。★
①正聞薫習→正しい教え、ないし言葉を繰り返し聞いて、それを深層の阿頼耶識に薫じつけること。
②無分別智→深層の重いありようを、すなわち麁重を滅して心の底から清らかに軽く安らいだ状態に変革せしめる力のこと。止観の力といっても良い。なぜなら、止観すなわち「静寂な心」と「ありのままに見る心」の本質は無分別智にあるから。
・★唯識思想が目指す目的を一言で言えば「転識得智」である。すなわち、「識を転じて智を得る」こと。したがって、仏陀とは「識を転じて智を得た人」ということになる。★
・唯識思想の観察は横や縦にも向けられると言える。
→観察の眼をぐるっと向けて「現象的存在すべてはなにか」と追求する。すなわち尽所有性を追求すると同時に、次にそれを追求しつつある自己の心の中をいわば縦に深く沈潜し、その心底にある「あるがままのものはなにか」と追求する。すなわち如所有性を追求する。
→これらすべて、いかに人々を救うかという目的のために智る(しる)のであるということに留意すべき。
・★観察するということで大切なのは、言葉で捉える以前に心の中に生じた影像に意識を集中して成り切って観察すること。★
→例えば、心の中に「ある」影像が生じる。それに対して「〇〇さんだ、憎い」と判断する。しかしそのように判断する前に、その「ある」影像に成り切って観察してみること、すなわち自相を観察することが重要である。
・自覚することは新しい自分がそこに現れたことであり、新しい智慧が生じたということ。
・仏教において欲といえば否定的な意味を持つが、一つだけ良い意味に用いられる。それが「善法欲」である。法欲とは真理を悟りたいという欲。真理を悟るとは、「いったいなにか」を悟る菩提を得ること。そのような、真理を悟りたい、菩提を獲得したいと欲することが善法欲である。出家したいとよくすることも善法欲のひとつに挙げられる。
・★心内の影像を心外の実境と執するところに迷いと苦しみが生じる。★
→これこそ、唯識思想のエッセンスを簡潔に述べたもの。
・感謝する心、それは深層の心に影響を与え、心の底から浄化していく。清らかに成り切った心で生きる世界、それを唯識思想は「円成実性の世界に生きる」と言う。