![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106135343/rectangle_large_type_2_129f347cf73c4968ff78e01bb31217e1.jpeg?width=1200)
#2 二コマコス倫理学(上)
"二コマコス倫理学(上)"を読了。
今後の人生における思考スタンスとして様々な古典にも触れておこうと思い、倫理学で非常に有名な本書をチョイス。
西洋思想・学問・人間形成に多大な影響を及ぼした、という触れ込みにワクワクしながら読んでみた。
ページを捲るたびに思考していく時間が増えていく本なので、腰を据えて読むことが必要。
自分自身の物差しをどうやって設定するのか、何を中庸とするのかを「選択」していくことの重要さを考えさせられる内容。
2種類のアレテーの中でも倫理的卓越性/倫理的徳はエトスによって発生するため、自分自身もさることながら、子どもの教育の視点でも非常に大事な観点だなと思った。
本書の中で特に印象に残ったのは下記の3点。
■アレテーには二通りが区分されている(知性的卓越性/知性的徳と倫理的卓越性/倫理的徳)
■節制も勇敢も、「過超」と「不足」によって失われ、「中庸(メソテース)」によって保たれるのである。
■「正」ということは、およそお互いの関係を規定する法の存在しているごとき人々にとってのみ存在するものなのである
(下)は少し時間を置いて読んでみたいと思う。楽しみだな〜
以下、学びメモ。
ーーーーー
・「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないような」性質を持つのは、幸福であろう。
→我々が幸福を望むのは常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく、しかるに、名誉とか、快楽とか、知などのアレテー(卓越性・徳)を我々が選ぶのは、これらのもの自身のゆえでもあるが、しかしまた、幸福のために、すなわち、それによって幸福であり得るだろうと考えて選ぶこともあるためである。
・およそ善は三様に分かれる。すなわち、いわゆる外的な善と、魂に関する、およに身体に関する善が存在するが、人々は魂に関しての善を最も優れたものとみなしている。
・幸福とは、すなわち、卓越性(アレテー/徳)に即しての魂の或る活動である。それ以外の善は、或いは存在していることの必要な条件であったり、あるいは助力的なもの、ないしは用具的に有用なものたる本性をもつものであったりするにすぎない。
・求められるところの持続性は、幸福な人においてはすでに存在しているのであり、幸福な人は生涯を通じて幸福であることをやめないであろう。
→なぜなら、その人は常に、ないしは何人にもまさって、アレテーに即して実践かつ観照するであろうし、また色々の運不運を最も麗しく、あらゆる仕方あらゆる意味において適宜に耐えてゆくであろうからである。
・★アレテーには二通りが区分されている★:
①知性的卓越性、知性的徳→発生も成長も大部分教示に負うものであり、まさしく経験と歳月を要する
②倫理的卓越性、倫理的徳→習慣づけ(エトス)に基づいて発生する。
・諸々の状態(ヘクシス)はそれに類似的な活動(エネルデイア)から生じる。我々の展開すべき活動が一定の性質の活動であることの必要な所以である。これらの活動の性質のいかんによって、我々の状態はこれに応じたものとなるのだから。
→★そのため、年少の時から或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれが全てである。★
・★節制も勇敢も、「過超」と「不足」によって失われ、「中庸(メソテース)」によって保たれるのである。★
・徳は快楽と苦痛に関わるということ、そしてそれは「自らがそこから生ずる因」たるごとき行為のなされることによって生長し、またそれとは異なったふうの行為のなされることによって喪失されるということ、並びに、徳は自らがそこから生じたとやはり同じ性質の行為において自らの活動を行うものである。
・★中庸(メソテース)とは、二つの悪徳(過超に基づくそれと、不足に基づくそれ)の間である。そして、更にこのことは「情念や行為において一つの悪徳は然るべき程度に比して不足し他の悪徳はそれを過超しているのに対して、徳は中を発見してそれを選ぶ」ものなることに基づいている。★
→徳は、その実態に即して言えば中庸であるが、しかしその最善生とか「良さ」に即して言うならば、それはかえって「頂極(アクロテース)」に他ならない。
・「選択される事柄」とは我々の力の範囲内に属する事柄のうち思量を経て欲求されるところのものであるとすれば、「選択」ということは、我々の力の範囲内に属する事柄についての思量的な欲求であると言わなくてはならぬ。我々は思量することによって決断した時、この思量に基づいて欲求するのである。
・勇敢は平然並びに恐怖に関わるが、同じ程度に両者に関わるわけではなく、恐ろしい事柄の方により多く関わっている。けだし、勇敢だと言えるのは、どちらかと言えば、恐ろしい事柄に当面した時に心を乱さないで然るべくそれに処するところの人であり、平気な事柄に関してそうであるところの人ではない。
→★勇敢な人だと言われるのは苦を耐え忍ぶということによってである★
・★節制的なひとは然るべき事柄を、然るべき仕方において、然るべき時に欲する。★
・★寛厚なひとが富んでいるということは容易にありえない。なぜかというと、彼は財貨を取得したり貯蔵したりするたちではない。かえって彼は出す方であり、財貨をそれ自身のゆえにでなく与えんがために尊重するのである。★
→寛厚の反対としてケチが挙げられるのは適切である。なぜなら、ケチは放漫に比して、より大きい悪徳でもあるし、人々は上述のような放漫への方向において過つよりも、ケチであることによって過つ方が多いのだからである。
・★豪華なひとは、いかなる領域においてであれ、豪華な仕方で(すなわちそれ以上の成果は容易に得られないという仕方で)、費えの値に応じて成果を作り出すことを特徴としている。★
・★矜持あるひとは、何よりも名誉並びに不名誉に関わるのであるが、もちろんしかし、彼はまた、富・政治的勢力・その他あらゆる好運並びに非運に関しても、それがいかなるふうになろうとも、調子の取れた仕方でこれに対処するだろう。そして好運に際会しても無闇に悦ばず、悲運であっても無闇に苦にしないであろう。★
・正義とは、すなわち、人々をして正しい物事を行うたちの人たらしめるような「状態(ヘクシス)」、つまり、人々をしてただしきを行なわしめ、正しきを願望せしめるようなそうした「状態(ヘクシス)」の謂いである。
→正義は徳の或る一つではなくして徳の全般である。他人への関連において見られる限りそれは正義であるし、こうした関連を離れて純粋にかかる「状態」として見られる限り徳なのである。
・★法はそれぞれの徳に即して生きることを命じ、またいかなる非徳に即して生きることをも禁じている。そして、徳全般を作り出すべきそれとしては、法の規定する諸行為のうち、およそ社会的な教育についての関心から立法された諸般の行為が存在している。★
・市民社会的な「正」とは、自足ということの成立のために生活の共同関係に立っているところの、自由人たる身分を有しており、比例的にまたは算数的に均等である人々の間における「正」なのである。
→したがって、およそこうした規定の該当しない人々にとっては、お互いの間に市民社会的な「正」
は存在しないのであって、単に何らかの、すなわち類同性に基づく転用的な意味での「正」が存在するに過ぎない。
→★「正」ということは、およそお互いの関係を規定する法の存在しているごとき人々にとってのみ存在するものなのである。★
・★いかなる状態(へクシス)にあっても、そこに一つの標的(スコボス)ともいうべきものがあって、「ことわり(ロゴス)」を有するひとは、これに眼を据えつつその具合を加減する。そこには、諸々の中庸についての或る一つの準拠(ホロス)が存在するのであって、これらの中庸なるものが過超と不足との間にあってまさしく中庸であるのも、我々に言わせれば、それが「ただしきことわり」に基づくものなるによるのである。★
・実践の端初(アルケー)は「選択」であり、「選択」の端初は「欲求」並びに「目的的なことわり」(ロゴス・ホ・ヘネカ・ティノス)にある。知性とか知性認識とかを欠いても、魂の倫理的な「状態」を欠いても、「選択」の成立しない所以である。
・「我々の魂がそれによって、肯定とか否定とかの仕方で真を認識するところのもの」として、我々は、五つのものを挙げなくてはならぬ。
→★技術、学、知慮、智慧、直知★
・智慧なくしては勝義における善きひとであることはできないし、また、倫理的な卓越性ないしは徳なくしては知慮あるひとたることはできない。