蕾は花開き、子に身長を抜かれる。
見ごろを終えた花はすっかり摘み取られた鉢植えカーネーション。
これから咲くかもしれないと思った、そこここについていたちいさな、固い蕾はいつしかスカスカになっていた。
頂いたときの華やかさ、きれいな形にちょうど良い量の花を咲かせていた鉢とは全く違う。花農家さんってすごい。そしてうまく引き継げずに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
しかし、新しい葉も出ていることは確認できたので水遣りを続けていた。
根腐れしてはいけないと、毎日お水をやっていたわけではなかった。視界にあっても、しっかりと目を配っていなかったからか、蕾の大きさの変化や、新しい葉の生えてきた量など、ある程度にならないとさっぱり気が付かない。
見てわかる変化がないと、どうにも気が離れてしまう。
もしかしたら、もう何をしても枯れちゃうのかも。これまでの経験から、そんな思いもあった。
しかしある日、しっかりとした蕾がひとつだけ、大きくなっていることに突然気づく。
すると俄然またしっかり見るようになった。水やりのタイミングはしっかり鉢を持ち上げて、重さを確認。日に何度も確認。
蕾が少しずつ大きくなり、花びらが見えてきて、と、毎日ひとつの蕾を凝視し、その小さな、でも確実な変化にニヤリと顔を緩めた。
そして、開花。
テレビのコマ送りのようなスピードでなくても、生きていれば少しずつ成長しているし、変化している。枯れるかもと思うなんて、大きな思い違いだった。
一輪だけだったけれど、無事開花してくれた時、そんなことを実感した。
少しずつ変わることに対しての私の鈍感さは、自分の子供に対しても同じだ。
子を見るときの目線はいつも下。そういうものだと私の脳みそは固定したまま。だからその少しずつ変わる様子に気づかない。
子の「ママの身長、もう抜いてるよ、僕」という突然の言葉を信じられず、夫という第三者を呼んで背比べした。
抜かれていた。
彼もずっと子供のままではないだろう。重いものも持ってくれるようになるし、体だけでなく、内面的にも成長して彼自身の考え方も持つようになる。そのうち説教されるようになるだろう。
少しずつ進む変化に鈍感なのは、気づいたときに「取り残されている」的な焦燥感やさみしさ、もったいない気持ちを感じることも。しかし気がつくことができれば、そしてそのあと、その変化の様を知っていくことは、私にとって楽しいことになる。
できるだけ早く気づいて、変化を楽しみたい。
今日、この記事を書いた日は七夕。今年も私が住んでいる地域から天の川を見ることは難しそうです。
時間、人など、色々な対象に対して鈍感な自分を恨めしく思うことがありますが、気づいた瞬間からでも集中して変化を探して慈しんでいくことがわたしにとっては楽しみ、と思って書きました。1日1日を楽しく生きていくことを自分にリマインドしました。
自分も生きているので何らかの変化があるはず。そんな期待も込めて。。。
子どもと背比べをして、その高さに合わせて付箋を貼っています。それを眺めると確かに抜かれていました。客観的指標(壁の付箋)をみて、渋々受け入れました。
カーネーションの鉢を頂いたときの話です。
お時間あるときお読み頂けたらうれしいです。😃💕
最後までお読みいただき、ありがとうございました。