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こたえ合わせ

これよりも前にも、父とのエピソードはいくつか記しているが、この人のネタが切れることが無いというのがやけに私の心を動かしている事実で、
何か複雑な"不思議"なのだ。

どうしてだろう。

仕事ばかりして来た父の姿が私の記憶をほぼ埋めているというのに、その僅かな隙間にいる"父"が確立されたキャラクターとして登場してくるのは、、、どうしてだろう。

幼い私が、あまりの共有できる時間の少なさに、もっとこうして欲しかったというその願いがこうしてペンを動かすのか。

適当にあしらう言い方に腹が立ったり、理不尽な父の発言に耐えることもあった。

その父について、私が思いを記すということが、父を赦すこと手放すことの始まりなのかとなんとなく思い始めている。


娘として生まれて43年が過ぎた。
父に対して

思っていたよりも○○だ
案外父は○○かも
やっぱりこの人は○○だ

と、良くも悪くも新たな父の顔を見ることが増えた。

それは新しい自分との出逢いに繋がっていて、深い深いところで、
「歓び」という感情に変化をして行った。
どんな感情に結びつくものであれ、
単純に、知らないことを知るというのは、脳が喜ぶのだという仕組みがわかった。

父という一人の人間性を客観的に見れる私になったのだ。

とても良い意味で。


○。○。○。○。


今日も父は朝のルーティンの途中、パジャマ姿で古新聞をあさる。

「何してるの?」

「この前の新聞、○○さんが欲しいって言って来たんだ〜。」
と、突然おもむろに動き出す。

「あー、あった、あった。」

乱雑に置かれた書類や手紙の上に、再び見つけた新聞を無造作に置く。

この習性、我が家の「どうにかならんもんか問題」として常に課題だったけれど、やがて「どうにもならん案件」となった。

母が不在の家には
「どうにもならんエリア」がいくつも点在していた。

今日も私はゴミ袋を片手に
「どうにもならんね!」と言いながらひとり、引き出しを開けては閉めている。

「お父さんの習性、どうにもならないね。」

と、ただただ母と呆れていたい。

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