【書評】日本中を巻き込んだ"噓"――『小山田圭吾炎上の「噓」 東京五輪騒動の知られざる真相』
2021年7月23日に開幕した東京オリンピック。その開会式の音楽制作を担当したミュージシャンの小山田圭吾は、開会式のわずか4日前に音楽担当を辞任することとなった。過去に雑誌記事で語った「いじめ」問題が白日の下に晒され、SNSを中心に解任を求める声が多くあがったからだ。
開会式の音楽担当を降板しても「世間の声」という名の炎が鎮火されることはなく、小山田が楽曲制作を担当したNHKの教育番組をはじめ、出演中のテレビ・ラジオ番組が続々と放送休止を決定。ライブイベントの出演辞退やリリース予定だったアルバムの発売中止を余儀なくされるなど、炎上の余波は小山田の活動そのものに大きな影響を及ぼした。
本書では東京オリンピック前後に耳目を集めた「小山田騒動」の検証を試みている。3年前の夏、日本中を巻き込んだ炎上のメカニズムを解明するべく、ノンフィクション作家の著者が小山田の関係者、小山田の学生時代の同級生、実際にいじめに関する記事を掲載した音楽誌の編集長らに取材を敢行。そこから見えてきたのは、炎上の発端となった記事で語られていた内容は、“事実と異なる”という揺るぎない事実だった。
「圭吾ってそんなキャラだったっけ?」
小山田がいじめについて語ったのは『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号と『クイック・ジャパン』95年第3号の2誌。前者は音楽誌でインタビュアーの質問に答える形で、後者はサブカルチャー誌で「いじめの加害者」にスポットを当てた企画のゲストとして、それぞれ過去の小山田の行動について滔々と語っている。
ただ、実際に小山田を取材したところ、判明したのは「当事者として特定の誰かをいじめてはいない」ということだった。取材当時、小山田は所属バンドの解散を経て、ソロとして活動をはじめた時期で、バンド時代の印象を払拭するべく、露悪的な内容を語ったという。このことがそのまま記事になり、世の中に発信されたのだ。
実際、小山田はその後も『ロッキング・オン』などの音楽誌にたびたび登場しているが、そこでもいじめの記事については「事実でない」と否定している。
また、小山田と旧知の仲にある同級生も口をそろえて、「圭吾ってそんな(いじめをするような)キャラだったっけ?」と話していることから、実際はいじめに加担しておらず、取材時に話を「盛って」しまったのが事の真相のようだ。
自らのブランドを確立するためにいじめを持ち出し点については、もちろん小山田に非がある。いわゆる“鬼畜系”文化が幅を利かせていた当時の文化的背景を斟酌しても、倫理に背くような言動は批判を受けて当然だろう。しかし、事実とは異なる内容によって日本中から敵意の視線を向けられ、1年にのぼる活動自粛に追い込まれるのは、あまりにも代償が大きすぎると言うほかない。
また、上記の2誌には掲載記事を事前に取材対象に見せておらず、小山田が記事を確認したのは発行後のことだった。もし小山田とその関係者が事前に記事をチェックできていれば、もし即座に修正を要求できていれば、21年夏の炎上騒動は未然に防げた可能性が高い。
メディアのあり方を問う
一連の「小山田騒動」は「いじめ問題」の文脈で耳目を集めたが、個人的にはメディアや報道のあり方について再考する余地があるように感じる。というのも、騒動の発端となったのはX(旧ツイッター)のつぶやきで、いじめの根拠として示されていたのも匿名ブログの記事だった。これと前述の2誌をソースに大手メディアが続々と報道し、やがて炎上騒動へと発展した。
どの報道機関も上記2誌の内容については取り上げるものの、その後の小山田の「弁明」はもとより、小山田の周辺について一切取材することはなかった。本書のような検証は、本来であれば騒動の渦中で行われるべきではなかったか。
雑誌社の責任も見過ごせない。注目を集める誌面づくりをしたい気持ちは分からないでもないが、事実と異なる内容を掲載し、それが発端となって1人の人間が過剰なバッシングにさらされたのだ。記事を掲載した当事者として、騒動を鎮静化するための対応を取るべきだったが、そのような対応が取られぬまま今日に至る。
そうは言うものの、かくいう私も過去に事実誤認によって取材先に迷惑をかけた経験がある。幸いにも私の担当雑誌では取材先の事前チェックを欠かさず行っているため、誤った情報のまま誌面が出回ることはない。この記事も取材先の事前チェックが機能し、該当箇所の修正を実施。誤情報が世に出ることはなかった。とはいえ、もし誤った情報が世間に流通してしまったら、取材先の名誉を大きく傷つけることになる。メディアに携わる人間として、「小山田騒動」は決して他人事ではないと痛感した。
メディアや報道のあり方について、本書を通してあらためて考えさせられた。私自身、雑誌制作に携わる人間として、本書をデスクの目立つところに置いておく。さながら家康の「顰像」のごとく、ライターそして編集者として背筋を正すために。