【書評】「共感」を軸に据えたクライムノベル――『テトラド 統計外暗数犯罪』
人類が安定的な社会を築くうえで、欠くことのできない要素が「共感」である。
人類はなぜこれほどまでに秩序立った共同体を形成できたのか。それは人類が進化の過程で、他者の喜怒哀楽を慮る能力を獲得したからだ。裏を返せば、共感力の欠如は個人、あるいは共同体間の諍いや争いの火種になる。対人関係のトラブルや衝突。度を越したクレーム。SNS上で日夜繰り広げられている炎上騒動。東欧や中東で繰り広げられている戦火……。原因は一つではないにせよ、これらはすべて他者の心情を汲み取ることを放棄した結果、生み出されたものにほかならない。
その一方で、過度な共感は精神的な疲労や誤った意思決定の原因となり得る。他者の行動や発言に敏感に反応してしまうと、心身の疲弊を招いてしまう。相手の気分や考えに引きずられると、正確な価値判断が妨げられてしまう。
このように、過度な共感が原因でトラブルに巻き込まれたり、引き起こしたりするのだ。特に「怒り」や「悲しみ」といったネガティブな感情は、瞬く間に人間から理性を奪ってしまう。
共感しても、し過ぎない。メンタリティーをニュートラルに保つことが、日常生活における秩序の維持とトラブルの回避には欠かせないのである。こと警察官においては、この能力を身につけずして、職務を遂行することは難しいだろう。そういう意味で本書『テトラド1』ならびに『テトラド2』(以下「本作」)は、警察官として一見「不適格」に映る2人が事件解決の最前線に立つという点で独創性がある。
共感力を持たない存在は悪か
警察への通報に至らず見過ごされた犯罪を秘密裏に調査する、警察庁統計外暗数犯罪調整課。同課警部補の坎手正暉(あなて・まさき)と相棒の静真(シスマ)は、東京・浅草で発生した火事の調査に訪れる。現場は解体予定の雑居ビル。その焼け跡から見つかったのは、奇しくも2年前に焼死したはずの囚人だった。
過剰なまでに他者に共感してしまう能力を持つ静真と、ある事件をきっかけに共感力を喪失してしまった正暉。この2人が互いの欠落を埋め合わせながら捜査を進め、やがて事件の根源である過剰共感存在(テトラド)と対峙する――。
あらすじからも分かるとおり、本作は警察官を主人公に据えた犯罪小説である。しかし、作品に込められたメッセージはきわめて内省的だ。「共感力を持たない存在は悪なのか」「人類に脅威を及ぼす身体機能は強制的に矯正してもよいのか」「先天的な身体機能の障害によって引き起こされた犯罪に、情状酌量の余地はあるか」……等々。
特に事件を惹起した「テトラド」は、周囲のあらゆる感情を増幅し伝播させる、いわば「拡声器」のような存在だ。テトラドが拡散した負の感情によって他者が犯罪や暴動を起こしたとして、その罪の責任はテトラドに帰するべきか……。哲学的な問いが乱発され、つい頭が混乱してしまいそうになるが、こうした「考える」という営為こそが本作の醍醐味である。
つまるところ、本作は犯罪小説であって、推理小説ではない。ユニークな主人公が事件を推理し、トリックや伏線を鮮やかに回収し、真犯人を追い詰める。こうした推理小説の醍醐味を期待して読んだとすれば、肩透かしを食らうこと必至だろう。くどいようだが、本作追究しているのは謎解きのカタルシスではなく、事件の端緒である「共感」について思考を巡らせることである。
冒頭で触れたように、共感力の欠如は争いのきっかけになり得るし、過剰な共感もまたトラブルのもとになる。秩序立った社会を構成するうえで、ヒトはどこまで他者に共感すべきか……。本作にはそんな思考実験的な要素が散りばめられている。