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いまさら映画感想④ 『マルホランド・ドライブ』が映し出す夢の構造──「自己の物語」は誰のものか?
入試の志望動機で必ず問われる「あなたの夢や目標は何ですか?」には長く違和感があった。個人的な夢や目標を持つことは良い。しかし、読み手(学校関係者)が納得し合格に判を押すような筋書き通りの「わかりやすい夢や目標」とは一体、誰のものだろうか?
私たちはしばしば「夢を持ち、それを追い求めることが人生の意味である」と信じている。しかし、その「夢」は本当に自己の内側から生まれたものなのだろうか?あるいは、私たちを取り巻く社会や文化が、ある種の「成功の物語」を紡ぎ出し、それを無意識のうちに内面化しているにすぎないのではないか?
デヴィッド・リンチ監督の映画『マルホランド・ドライブ』は、夢と自己の関係を通じて、この問いを突きつける。夢が現実と乖離したとき、人は自らの存在をどのように見出すのか。あるいは、そもそも「夢」という概念そのものが、個人の意志ではなく、社会的構造の中で形成された虚構なのではないか。構造主義的な視点から本作を読み解くことで、現代人が直面する「自己の物語の所有権」という根源的な問題に迫る。
夢は「個人」のものか?── 社会が生み出す虚構としての夢
映画の主人公であるベティ/ダイアンは、ハリウッドで成功することを夢見てロサンゼルスにやってくる。しかし、ここで重要なのは、「なぜ彼女はハリウッドを目指したのか?」という点である。彼女が望んだ成功とは、果たして彼女自身の主体的な選択なのだろうか。レヴィ=ストロースの構造主義的視点に立つならば、彼女の夢は「自己の内部から生じたもの」ではなく、むしろ社会の語る「成功の物語」によって構築されたものと考えられる。
構造主義によれば、私たちの思考や価値観は、個人の自由な選択ではなく、社会が長年にわたって形成してきた構造の中で決定される。ハリウッド映画産業は、「夢を叶える者こそが成功者である」という神話を繰り返し再生産してきた。この神話は、映画スターやセレブリティ文化を通じて広まり、成功した者だけが輝き、敗れた者は消えていくという物語の枠組みを作り上げる。ベティ/ダイアンの夢もまた、この社会的構造の中で形作られた「虚構の物語」にすぎない。
ここで問題になるのは、「夢が社会の構造によって生み出されたものだとすれば、夢を失うことは何を意味するのか?」という点である。ダイアンが夢を失ったとき、それは単なる挫折ではなく、彼女が自らを支える物語そのものを喪失したことを意味する。それまで彼女は「成功すること」によって自己の存在を確立しようとしていたが、その前提が崩れたとき、彼女の「私」という存在は霧散し、自己喪失へと陥る。
夢の崩壊と自己喪失──「物語の支配」からの逃走は可能か?
映画の前半において、ベティは希望に満ちた若手女優として登場する。彼女は無邪気で、純粋に「自分の夢を追いかけている」ように見える。しかし、ナオミ・ワッツの演技には、すでにその夢の背後にある不安や危うさが滲んでいる。それは、「もしこの夢が叶わなかったら?」という問いに対する潜在的な恐怖である。そして映画が進むにつれ、ベティはダイアンへと変貌し、夢を追い求めた果てに自己を見失い、絶望の淵へと沈んでいく。
この変化は単なる「成功と失敗」の物語ではなく、「夢という社会的物語に従属することの危険性」を示唆している。ベティは、あくまで「成功者」という物語の枠組みの中でしか自己を認識できなかった。そのため、その物語が崩壊したとき、彼女は新しい自己を見出すことができず、結果として破滅へと向かうことになる。
ここで浮かび上がるのは、構造主義が提起する「人間は物語の支配から逃れることができるのか?」という問題である。レヴィ=ストロースの視点に立てば、人間の思考は常に社会的な構造によって制約されるため、完全にその影響から自由になることは難しい。しかし、そこからの「ずれ」や「逸脱」を見出すことで、私たちは新たな意味を見出す可能性を持つ。
青い箱が示すもの── 夢の牢獄と自己の再構築
本作に登場する「青い箱」は、夢と現実をつなぐ象徴的な構造である。この箱が開かれることによって、ベティはダイアンへと変わり、夢の世界は崩壊する。しかし、重要なのは、この箱が単に「夢の終焉」を意味するのではなく、「夢がどのように人を閉じ込めるか」を示している点である。
夢は希望を与えるものであると同時に、時に人を拘束する檻にもなりうる。ハリウッドという構造が生み出した「成功の物語」に囚われたベティ/ダイアンは、その夢から逃れる術を知らず、結果として自己を破壊してしまう。しかし、本作のメッセージは単に「夢を持つことの危険性」を指摘するものではない。むしろ、それが「どのような構造によって生み出されたものなのか」を自覚し、それを盲信するのではなく、主体的に「利用する」ことの必要性を示している。
夢の再構築と自己の回復
『マルホランド・ドライブ』は、夢を持つことの美しさと、その危険性を同時に描く作品である。そして、それを構造主義的に読み解くと、私たちが信じる「自己の物語」がいかに社会の産物であるかを浮き彫りにする。
では、私たちは夢を捨てるべきなのか?決してそうではない。本作が示すのは、「夢に支配されるのではなく、それを自覚し、主体的に再構築すること」の重要性である。夢が社会的構造の中で作られたものであるならば、私たちもまた、その物語を編集し、新たな意味を生み出すことができるのではないか。
現代社会において、「成功の物語」はSNSやメディアによってさらに強化され、多くの人が「社会が与えた夢」を無自覚に生きている。しかし、私たちはその物語を無批判に受け入れるのではなく、それを見極め、時にずらし、書き換えることができる。その可能性を示すことこそ、『マルホランド・ドライブ』が現代人に突きつける本質的なメッセージなのではないだろうか。
先月亡くなられたデビッド・リンチ監督にお悔やみを申し上げます。
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