マジックアワーに立ち止まる /『流れ星が消えないうちに』橋本紡
昼と夜のあいだの、一瞬の薄明り。マジックアワーと呼ばれるその時間に、佇んで暗闇に沈まんとする海を眺める。
オレンジの中に身を任せていると、まるでこの時間が永遠に続くような気がしてくる。
もう少し、もう少しだけ見ていたい。
見ていたいけど、時間は冷徹だ。
オレンジはやがて青に染まり、波音は光を追い越してその場を支配し、わたしごと闇の中に世界を飲み込んでいこうとする。
諸行無常を教わるかのような気分になる。
「この世の中に、変わらないものなんてないんだよ…」と。
マジックアワーには、どうやら定義があるらしい。
太陽が1時間に15度進むならば、それは30分にも満たない間の出来事、ということになる。
1日の中の、ほんの数十分の時間が、これほどまでに印象的に人々の心に残るのは、なぜだろう。
消えてしまう儚さゆえなのか、それとも、きたるべき夜への期待感なのか。
本作『流れ星が消えないうちに』は、事故でかつての恋人・加地を失った奈緒子が、玄関に布団を敷いて寝る描写から始まる。
加地亡き後、奈緒子は、加地の高校の友人であった巧と付き合う。
だが、奈緒子の加地への思いが消えることはなく、思い出の詰まった自室や当時彼が読んでいた本のある納戸では寝ることができなかった。
なんとかして寝られる場所を探して奈緒子は布団を手に家の中をさまよい、やがて玄関にたどり着く。
ここであれば、その思いに悩まされず、ぐっすりと眠りに落ちることができた…。
玄関は、家の内と外とをつなぐ場所である。
外の世界に接する大事な場所であるが、あえてそこに立ち止まる人はいない。
しかし、ここに安息を見出してしまった奈緒子は、明らかに、過去にしがみついて身動きが取れなくなっていた。
マジックアワーは、玄関に似ているな、とふと思う。
昼でも、夜でもないつかの間の時間。
もしかすると、マジックアワーに魅せられるその理由は、どちらともつかない落ち着かなさという「違和感」ゆえなのかもしれない。
巻末の「解説」は重松清さんによる筆なのだが、これまた本編と同じように、美しい文章が並ぶ。
わたしたちは、マジックアワーの幻惑を振り切って、次なる世界へと身を投じなければならない。
暗闇に取り残されて、まるで砂のように波の中へと引きずられてしまう前に、じぶんの足で、別の光を探しにいかなければならない。
動くことで、周りがちがうふうに見える。いや、もしかすると、じぶん自身が変わっていく。
どうすることもできない過去にきちんと別れの挨拶をして、きたるべき未来のことを考えて一歩を踏み出す。
その小さな勇気を、この物語はわたしたちに与えてくれる。
いつかは過去に決別をして、歩き出さなければならない。
でも、その前にちょっと立ち止まって、マジックアワーに見とれてもいいし、奈緒子のように玄関で寝る夜を過ごしたっていい。
そして、
「動くこと」と、「見方を変えること」。
そのふたつの順序は、もしかしたら逆でもいいのかもしれない。
まるで夕景かのように差し挟んだ3枚の写真たち。
実は薄暮ではなく、朝焼けの写真だ。
その遠くはかない太陽を、沈みゆくものとみるか、きたるべきものとみるか。
考え方ひとつで、希望は見えてくるのかもしれない。
おわり。
(超どうでもいい追記)
「世の中には動かなきゃ見えてこないものが…」の引用は、奈緒子の現在の恋人であり加地の友人だった巧によるもの。彼、地の文での一人称は「僕」なんだけど、引用箇所みたくセリフの中だと「俺」になる。
確かこの一人称の使い分けは、村山由佳の「おいしいコーヒーの入れ方」シリーズの主人公・勝利と同じだ。
ひたむきでちょっと真面目すぎるくらいで、友人や恋人を一番に考える心優しい青年のイメージが重なって、あらぁ好青年だわん、なんてつい近所のおばちゃんみたいな気持ちになる。
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