見出し画像

年間読書人さんからの反論(2)

年間読書人
2025年1月13日 01:58

> スロウ・ボートさま

〈第5号〉、ざっと拝見しましたが、今回も、細かく切り刻んでのご反論なので、個々に応答していては、時間を取られ過ぎますから、悪しからず、わたし流にまとめて、反論させていただきます。

まず、私の文章を細かく区切って、「と私(アレクセイ)は思う。」と付け足していくのは、〈識別コード〉付けであって、「印象操作」を意図したものではない、とのことですね。
「と、私(スロウ・ボート)は思う。」と。

でも、それは貴方の「意図」がそうだと説明しているだけで、「事実」がそうだとは限りません。
例えば、貴方に「その意図が無くても、印象操作として機能する」場合もあるし、貴方に「印象操作の意図があった」場合でも、普通は「印象操作の意図でやりました」とは言わないからです。

つまり、貴方がおっしゃっていることは、貴方の主張する「事実(公式見解)」でしかなく、私が貴方の御文を読んで解釈した「事実(意味するもの)」の話ではありません。

しかし、主観の話ばかりをしていても仕方がない。
では、何のために議論するのかと言えば、どちらの「見解」に「説得力」があるのか、それが問題になります。
そして、この時に言う「説得力」とは、「客観的な第三者」にとって、ということになるでしょう。

無論「客観的な第三者」というのは「実在」はしない「仮定された判定者」にすぎません。ですが、それを仮定しないことには、そもそも議論は成立しません。

したがって、私が「印象操作」にしかなっていないと言う時、貴方が「その意図はなかった」と説明されることは、ほとんど無意味でしょう。
問題は、そうした「特殊な書き方」が、実際にどのような「効果」を持つものなのか、というのを、「客観的第三者」が、どう判断するかが、問題なのです。

例えば、貴方の『(わたしの反論)』の反論のひとつ。

> 〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのものです。「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません。また、繰り返しになりますが、読者に対して示されたものでもありません。とわたしは考えます。
従って、それは、読者に対する、印象操作の「刷り込み」の意図で行われたものではありません。とわたしは考えます。
しかし、結果的に年間読書人さんが、そのようなものと理解されてしまったのは、わたしの説明不足に由来する、とわたしは考えています。わたしの批判〈第2号〉に於いて、〈識別コード〉の付与の意味について、詳細に解説しておけば、そうした理解にはならなかったと、わたしは考えています。

と、いちおう私の希望どおりに「と、わたしは考えます。」等と付けてくださっているように見えますが、しかし、貴方流のやり方が本当に必要なのなら、ここだって、次のようにしないと、意味がありません。

「〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのもの【と、わたしは考えます】。「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません【と、わたしは考えます】。また、繰り返しになりますが、読者に対して示されたものでもありません。とわたしは考えます。
従って、それは、読者に対する、印象操作の「刷り込み」の意図で行われたものではありません。とわたしは考えます。
しかし、結果的に年間読書人さんが、そのようなものと理解されてしまったのは、わたしの説明不足に由来する、とわたしは考えています。わたしの批判〈第2号〉に於いて、〈識別コード〉の付与の意味について、詳細に解説しておけば、そうした理解にはならなかったと、わたしは考えています。」

つまり、貴方のやり方は「厳密」なようでいて、実は「恣意的」なのです。
だって、『〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのもの』
とか、
『「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません』
とかいった、肝心な「ご主張」の部分は、都合よく、【と、わたしは考えます】付けから除外されてしまっているからです。

しかし、この事実に気づける「実在の読者」が、いったいどれだけいるでしょうか?

初めから、短い文章なら、細かく検討する気にもなるでしょうが、貴方の書き方では、その「文章量」に圧倒されて、細かいところまで分析するどころか、斜め読みして、大筋の印象を受け取るのが、やっとでしょう。
要は、読者の集中力が、削がれる書き方だ、ということです。

実際、他の部分でも、【と、わたしは考えます】が抜けていて、ただ、恣意的に区切った文章の最後の部分に【と、わたしは考えます】が付けられているだけなのですが、その「事実」に気づける読者は、この書き方によって、物理的に減らされてしまう。

こうした「言葉数で、読者を圧倒する」という手法は、例えば、口八丁の弁護士を評するのに「三百代言」と言ったり、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の名探偵・法水麟太郎の「ペダンティックな推理」について、その文学的な「レトリック」を楽しめない、ガチガチの本格ミステリマニアである形式論理派の醒めた読者からは「法水麟太郎の推理におけるレトリックが、存在しない事件をでっち上げているだけ」などと酷評されたりするのと、同じようなことです。

また、ミステリの世界でのトリックとして、自分の殺した人物の死体を隠すのに、わざわざ戦争を起こして死体の山を築き、そこに死体を紛れさせる、「木の葉は、森に隠せ」式の証拠隠滅法というのがあります。

もちろんミステリの場合は、誇張されたものですが、しかし、これは人間の思考の盲点や思考力の物理的な限界(検証対象量の膨大さに対する疲弊)をうまく突いたものだから、読者もそれを面白いと思うのですね。「そういうことって、確かにあるよね」と。

で、貴方の文章は、それが意図的なものかどうかまではわかりませんが、結果としては、間違いなく「法水麟太郎」式のものであり、そのように機能していると、私は評価しているのです。
そして、そういうやり方は、論点を曖昧にするものでしかない、と思うのですね。

法水麟太郎と同様「詩的なレトリック」で楽しませるのが目的であるような文章なら、それでも良いのですが、論争に、そういう文体は不適切だと私には思えます。

そもそも読者の多くは、私のレビューへの貴方の批判の論点が何であったのか、すでにわからなくなっているのではないでしょうか。
それこそ、これも江戸川乱歩式に言うと「八幡の藪知らず」のごとく。

貴方のご主張では、こうしたやり方の方が、私も含めた「読者」に対して親切だ、【と、わたしは考えます】ということなのかも知れませんが、私は、前記のような理由から、そうではないと思うし、実際にも、そのようには機能していないと、考えます。

で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。

もちろん、この「現実」とは、読者にとって、いろいろでしょう。
貴方の説明に「説得力」を感じる人もいるでしょうし、私の説明に「リアリティ」を感じる人もいて、絶対的な判定は不可能でしょうが、それは仕方のないことです。

そして、私の言う「事実そのものは存在しない」というのも、そういう意味です。
「何かが存在する」というのは、共通了解という意味で「事実」だと言っても良いでしょうが、「それ」が「何なのか」という点においては「事実」は存在しない。

千葉雅也さんの小説『エレクトリック』が芥川賞候補なったというのは「事実」でしょうが、「芥川賞候補作」であることが「一定の価値を保証する」というのは、「事実」ではなく「解釈」による「主観」な価値評価でしかありません。
つまり、多様な価値観を持つ人間の中において、同じ価値や意味を持つ、固定的な「事実」としての『エレクトリック』は実在しない、ということです。

人によっては、「それ」は「聖典」かも知れないし、別の人にとっては「駄作」、馬や山羊にとっては「単なる紙の束」でしかない。これは、どれも「事実」なのです。
つまり、「事実」とは、視点によって変わってくるものだということですね。
そのあたりをご理解なさっていないのだと思います。

したがって私は、「独我論」なんて、大袈裟なことは考えていません。私がいなくても世界は存在すると思っています。
しかし、その世界とは人によって違ったものでしかなく、客観的に絶対的な「事実」などというものは、存在していないと、そう言っているだけなのです。

今回の反論は、このあたりにしておきましょう。
これだけでも、分割してコメント欄に投稿するのは、なかなか面倒で気が重い(笑)。

あと、以上のような私見からして、今回、貴方にお願いしたいのは、

(1)貴方の文章の文節ごとに【と、わたしは考えます】を付けていただきたい、ということ。

(2)私の反論のページを立てていただく場合、シンプルに、私の文章と、私の関連記事リンクだけにしていただきたいと思います。
つまり、貴方による「前説」は不要だということです。
これは、読者を、無駄に疲れさせず、本文に集中させるためです。

(3)変換ミス、誤字脱字などに気づかれましたら、ご指摘ください。

(4)あと、前にもお願いしましたが、せっかく論争をやっているのですから、

https://note.com/waterwaves

の方に、シンプルに「論争やってますので、ご覧ください」という、ここへのリンク付きの告知記事を出して下さい。
それでなくても、長くなりそうですので。

以上、よろしくお願いいたします。

年間読書人

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー

・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。

・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
 版!

・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集