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「自分に向かい合う。」ことの、個人的考察。

最近よく聞くワードに
「自分と向き合う。」という言葉がある。

最初のうちは、
そうかー向き合うんかー。
くらいに思っていたが、
だんだん、
「じぶんって、自分に向き合えるものなのかな?」
と思うと同時に、

「自分はこんなにも自分と向き合った(向き合って変わった)。」
と言う言葉に触れるたび、
どんな風に向き合ったのだろう?
と考えたりするようになった。

自分と向き合う、
という、言葉に感じる(わたしが個人的に勝手に感じている)どこか、何か、違う感じ、私の中の違和感があって、

その言葉にはいろんな意味が込められているのだろう。

真摯に生きている。とか、
自分から逃げない。とか、
生き方を変えた。とか。

いや、
そうじゃなくて、
向かい合っても、
自分は永遠に自分に出逢えない。って私は思ってしまうのだ。(ひねくれているのかもしれぬ)。

例えば、外側からの視点で言えば、
鏡を見ると左右が逆に映る。
最近はzoomや録画に自分が登場するが、鏡に映る自分に慣れていると、
あ!ホクロの位置が違う!とか、
髪の分け目が逆!とか思ったりするんだけど、
いやいや、
それが実はリアルな自分で、自身の左右の認識が違うのだった。

話しは少し飛ぶようだが、
昔、カウンセリングを学んでいたとき、逐語記録があった。
レコーダーを準備して(スマホは不可だった)其々が自身のカウンセリングの内容をレコーダーに記録して文字起こしをする。
私はMCとかするときに録音したりしてるので、自分の声はその時には慣れていたので抵抗は無かったが、殆どの人が「自分の声を聴くのが嫌だー!」と言っていた。
んだよね。
私も慣れるまでは違和感あったな。
😱自分ってこんな声なんだー!
😱こんな喋りかたなんだー!
知らなんだーーー!!
少し恥ずかしい。。的な。
(そのうち慣れるが)

自分の声すら聞けない現実。
発する声は内耳に響いて外から客観的に聴くことが出来ない現実。

画面を通して観る自分も、あくまでも画面の中の自分でしかなく、
私は、この私という身体の持ち主でありながら、
持ち主であるが故に、自分に出逢えないというパラドックス。
(そーいうの、嫌いじゃないけど)
私はわたしに出逢いたい!と思うがそれは人生の中で叶えられない。
自分が自分であるが故に。誰もが。

こころの奥だってそうかもしれないと思う。
自我は簡単に嘘をつく。
自分が傷つかないために、
好きなひとを嫌いになろうとしたり、嫌いな人を好きであろうとしたりして、ココロを守ろうとすることは多々あるように感じる。(自分の経験を振り返っても)
自分を悪者にすることで、または、他者のせいにすることで、エゴはチカラを持つときもあるかもしれない。

自分と向かい合うって、
そういう場所で、どれだけ自身の本当に出会えるか?なのかもしれないと思いつつ、
そこにジャッジが出てくると余計に辛くはならないか。
たった独りで、自分ひとりでするその作業は、もしかして、辛すぎないか?
と、思うのだった。


自分の鏡は、他者だと思う。
他者が、私を映し出してくれる。
私も、他者を映し出しているのだと思う。

その関係性において、他者に対する(イコール、自身に対する)あらゆるジャッジメントを外すことが、もし、出来たとしたら、
そのとき、純粋な自分に出逢えるのかもしれない、と、今、思った。(書いてて思った)

わからんけど。

自分に出逢いたかったら、
向かい合いたかったら、
目の前の人間関係を通せ。
これは、私自身に向けて放つ。

⭐️
私は「向かい合う」より「帆走」がいいな、と、思う。

向かい合うのは苦しい。
左右逆だし、声すら違うものだから、驚いたり睨めっこになるけど、もし、
自分が自分と帆走するなら、
向いている方向は同じで、
見ている風景も同じで、
歩調も合わすことが出来るんじゃないかな。

顔は見えないかもしれないが、対立関係は無い。
そして、ひとりじゃない。

そんな気がした梅雨のど真ん中。

⭐️⭐️

占星術的には、

向かい合う🟰オポジション(相反する緊張関係であるがエネルギーの通りは良い)

帆走する🟰コンジャンクション(合)同じサインの中で同時に動く。ひとつになる。

だなぁ。。
と感じたりする、ちょいと職業病。ψ(`∇´)ψ

さて、寝るかー。

エケネイシャ(エキナセア)

雨、止みますように。


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