国語科の授業で民主主義を考える
Google for Education認定トレーナー/コーチの笠原です。
大型連休は授業準備もコツコツと進めています。高校三年生の授業では、そろそろ高校三年間のまとめをイメージしながら授業を進める時期です。
高校三年間の国語科の授業の役割とはどのようなものかということを考えると、個人的にはシンプルに「民主主義の担い手として言葉の力を身につけること」がその一つだろうと考えています。
他にも色々なことに役割があるとは思いますが、高校三年間の国語科のまとめとしては、「民主主義」を考えていくことが重要になるだろうと思っています。
民主主義に関する定番教材
高校国語科の民主主義に関する定番教材と言えば、丸山眞男の「「である」ことと「する」こと」があります。岩波新書の一章分の内容ですね。
※個人的に高校卒業までに新書を自力で読めるだけの力はつけて欲しい、そういう力をつけられるだけの授業はしたいと思っています。
今回の学習指導要領の改訂で、教科書の多くの文章が入れ替わったこともあり、現代社会の状況を反映したような素材もかなりの数があります。しかし、個人的にはこの「「である」ことと「する」こと」は、高校の現代文としてしっかりと取り組みたい題材であると考えています。
「「である」ことと「する」こと」の中で指摘されている要素について(授業で扱いたいのでぼかして書いています)、しっかりと自分の具体的な経験に基づきながら、現代の問題に地続きとしてある問題だということを読めて欲しいと考えています。
そもそも「読める」とはどういうことかということも、かなり悩むのがこの素材です。先に述べたように「自分の具体的な体験に基づきながら…」ということは読むということなのだろうか、もし、読むということならば、どういう授業であれば、そういうことが力として身につくのだろうか…ということを考え込んでしまうのです。
※そういう悩みに陥ったときには『理解するってどういうこと?』が非常に役に立ちます。
デジタル・シティズンシップ教育との関係性で
「「である」ことと「する」こと」の扱いを個人的により難しくしているのが、デジタル・シティズンシップ教育との関係性です。
デジタル・シティズンシップ教育は「シティズンシップ教育」でもあるため、国語科の授業の中で民主主義をテーマとした「「である」ことと「する」こと」を扱うならば、そのあたりの関係性も考えてみたいと思っているのです。
ただ、今のところは自分の手には余っています。
そもそも、デジタル・シティズンシップ教育についての自分の不理解がまだ著しいことが大きいです。実践としてもまだ取り組みが足りていないという自覚があるのです。
また、川口(2023)において
という指摘があり、この内容について色々と考えてしまっています。
(※この指摘は個人的にはもう少し実践が深まり、取り組みが広まってくれば自然と解消されることだろうと思います。GIGAで悲鳴をあげている現場にいきなりそのような実践まではたどり着かないでしょうし。Common Senseのレッスンプランを見ても、いずれ社会問題につながるような授業は生まれてくるだろうと思います。)
この指摘は国語の授業にも刺さってくると感じます。国語の授業で様々な問題へ言葉でアクセスできるようになっても、実際の現場で起こっている問題へどのように向き合うのかという点はやはり弱いと考えてしまいます。
どこまでが授業の範囲なのかということも考えるべきですが、等閑視も出来ないなぁと思い、色々と考え込んでしまうのです。
おそらく、ICTをつかえるようになったことで数年前に比べて、「「である」ことと「する」こと」の扱う幅はよりいっそう広がったように感じています。実際に「「である」ことと「する」こと」の本文の中で問題にされていることは「する」の問題も「である」の問題もデジタル・シティズンシップの問題につながっているように感じます(授業構想中なのでふわっとしかここには書きませんが…)。
そうなると、じゃあ授業ではどこまで何をやろうか……まったく自分の中で結論が出ないですね。
特にオチも考えつかないで書き出し、話が散逸したので本日はここまでで。
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