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「山水経」メモ⑦

 たとひ草木土石牆壁の見成せる眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七宝荘厳なりと見取せらるゝ時節現成すとも、実帰にあらず。たとひ諸仏行道の境界と見現成あるも、あながちの愛処にあらず。たとひ諸仏不思議の功徳と見現成の頂寧をうとも、如実これのみにあらず。各々の見成は各々の依正なり、これを仏祖の道業とするにあらず、一偶の管見なり。
 転境転心は大聖の所呵なり、説心説性は仏祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滞言滞句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる「青山常運歩」なり、「東山水上行」なり。審細に参究すべし。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

「たとひ草木土石牆壁の見成せる眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。」

《たとえ、草木、土石、牆壁など、日常に目にするさまざまな事象をあるがままのすがたとしてはっきり見通す眼目があったとしても、疑うほどのことではないし、動揺するほどのことでもない、仏道の全現成ではないからだ。》

「たとひ七宝荘厳なりと見取せらるゝ時節現成すとも、実帰にあらず。たとひ諸仏行道の境界と見現成あるも、あながちの愛処にあらず。たとひ諸仏不思議の功徳と見現成の頂寧をうとも、如実これのみにあらず。」

《たとえ、世界が七宝に荘厳されたように素晴らしいものに見える時節が現成するとしても、それで本当の真実に帰着したわけではない。たとえ、これこそ諸仏が行じてきた真理の境界だというはっきりとした体験があったとしても、その境界もむやみに執着するところではない。たとえ、これこそ諸仏による人間の思議を超えた功徳であるという明らかな体験を自己の事実として得たとしても、本当の真実(=如実)はこれだけで尽くされるのではない。》

「各々の見成は各々の依正なり、これを仏祖の道業とするにあらず、一偶の管見なり。」

《それぞれの体験はそれぞれの主体とその環境の関係において起こることであり、これをそのまま仏祖の道の行いとするのではない。それぞれの体験というのは、あくまで、それぞれの立場から垣間見られた真実の一面にすぎないのである。》

「転境転心は大聖の所呵なり、説心説性は仏祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滞言滞句は解脱の道著にあらず。」

《心(主体)と境(客体)を別に立て、境が心を転じ、心が境を転ずると考えるのは仏が叱るところであり、(そのように心と境を分けたうえで)自身の心を説くことにより自己の本性を説こうとするのは、仏祖がうけがわないところである。同じように、ただ自身の心を見ることで自己の本性を見極めようとするのは仏道とは言えない外道のやりかたであるし、だからといって、ただ言句に滞るだけで何も実証しないというのは解脱の道ではない。》

「かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる『青山常運歩』なり、『東山水上行』なり。審細に参究すべし。」

《このような境界(自分の認識の及ぶ範囲における理解や体験)を透り脱けさせることがある。それが言うところの「青山常運歩」であり、「東山水上行」なのである。審細に参究しなさい。》


「直指人心、見性成仏」への戒め

禅では「直指人心、見性成仏」という。それは、経典などによらず、自身の心の本性がそのまま仏であることを直接体験的・・・・・に見極めることである。こうしたことを道元禅師はすべて否定はしないけれども、それだけで仏道を分かった気になってはならないと厳しく注意している。あくまでそういった体験というのは、それが個人的にいくら深いものであれ、「一偶の管見」、つまり、それぞれの立場から垣間見られた真実の一面にすぎないのである。

仏の教えは、個人の体験や理解、もしくは個人のレベルにおける心の平安などに限定されるようなものではなく、もっと広い世界観を持っている。道元禅師のいう「心」とは個人の心に留まるものではなく、一切衆生を包む「心」である。同じく道元禅師のいう「自己」も個人のことに留まらず、〈いのち〉全体を生きている自己のことである。経典や仏祖のことばというのは、そうした世界を前提にして語られたものである。だから、それらを無視し、個人レベルの体験や理解に滞ることは、仏道とはいえない。といって、ただ言葉ばかりを頭でいくら学んでも実証されなければ意味がない。経典や仏祖のことばを学びつつ、それらを実証するなかで、仏の説く〈いのち〉を自ら感得し、体現していくというのが本当の仏道である、ということを道元禅師は言っているのだろうと思う。


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