91)「いまここ」で生きれば思い煩うことがなくなる
最近は、どんな記事を書いていても「いまここ」というワードが出てきてしまう。
結局のところ、人は今にしか生きれないのだから、当然といえば当然のことだ。
しかし、これまでの人生の大半を未来志向で生きてきたわけだから、ついつい意識は未来に向かってしまう。
とはいえ、意識が未来に行ったとしても身体は「今」にいる。
身体を軸に考えるなら、「私」という存在は「いまここ」にいるということになる。
今に意識を置くことができれば「身口意を一致」できるから、今に意識を置くことは真っ当なことといっていいだろう。
今に存在できると、真っ直ぐに立つことができる。
未来に意識を置くと「前のめり」になる。
過去に意識を置くと、身体を「後ろのめり」になる。
「前のめり」も「後ろのめり」も、姿勢としてはバランスが悪く、その体勢を維持するのには余分な力が必要になる。
しかも、姿勢が悪いから長時間、その体勢を維持するのには適していない。
やはり、今を軸に置くことが真っ当なことだと思う。
今に意識を置くことができれば、よい姿勢を保つことになりリラックスできるから夢中の状態を維持できる。
もちろん、人は未来を見据えて行動するわけだから、未来に意識を向けることは悪いことではない。
しかし、どんなときでも生きるのは今であり、「今の充実度」が未来に反映されると考えることができるようになると、今を起点に生きていけるようになっていく。
最優先することが「今」になり「未来」が二の次になる。
未来に自分を合わせるのではなく、今の自分に未来が付いてくると考えられるようになれば、前のめりになって行動することがなくなっていく。
前のめりで行動すると躓きやすいし姿勢が悪い分、エネルギーの漏れが起こる。
エネルギーを漏らしながら行動するのは効率が悪いし持続力も失われる。
気持ちばかり前に進んでいると手元が見えていないから、大きな間違いをすることになる。
しかし、今に正体し今できることに向かい合っていった方が、エネルギーの浪費もなく持続的な活動ができるようになる。
高速で回転するコマのように軸を真っ直ぐ保つことができれば、順調に物事が進んでいく。
未来志向で生きていると、生きることの意味が未来を良くすることになってしまう。
しかし、生命の本質は今に充足することにあり、今に充足できたなら、それだけで喜びを感じられるようにできている。
未来に意識を置いてしまうのは、自然界では人間だけだ。
神は、人間にそんな仕掛けを創り出した。
きっと「今」の大切さを学ぶには、そんな仕掛けが必要だったと思う。
神が創った仕掛けを見破るゲームの中で、我々は生きている。
もちろん、未来を考えないと行動はできない。
「何かをしよう」と思うのは、未来に対する思い。
そこで、今を充足させるために「今、何ができるか」と僅か先の未来を考えて、それを実行していく。
極端なことをいってしまえば、それされできていれば他に何も心配することはなかったりする。
考えるのは身近な未来に何をするのか。
そんなものでいいのかもしれない。
「明日のことを思い煩うな」とキリストがいうのは、我々はもともと大丈夫な存在だから、明日のことを思い煩うことは無駄だよ、という意味だと考える。
また、思い煩えば思い煩うほどそういった現実を作ってしまうという意味もあるし、明日のことを思い煩うことで今を取り逃がすなという意味もあるだろう。
気持ち半分で行動するのではなく、今できることを最大限に行っていく。
大切なのは「この今」をいかにして充足させるかであり、今に充足できればできるほど、未来ついてあれこれ考えている暇がなくなっていく。
夢中になって本を読んでいるとき、明日のことを1ミリも考えないように、夢中になればなるほど、思い煩うことができなくなる。
そういった夢中という充足の中で生きることが、生命の喜びそのものといっていいだろう。
夢中とは、今を夢の中で過ごしているような状態になること。
この今を、夢中で過ごすことができたなら夢が叶ったといってもいい。
夢中になれることがあるということは、それをしているときは夢が叶った状態なのだ。
今に夢中になって、今を生きることに力点を置き、常に今を感じて生きることができるようになると、あとは「随神の道」というべき、自分が生み出した喜びの流れに従って生きていけばいい。
今を生きることで、人生の流れを生み出す。
その流れの先に何があるか分からないけど、することに変わりはない。
「いまここ」で夢中になって生きるということに変化はない。
景色は変わっても、身口意が一致していればいい。
「ああ楽しい‼」
心と体が喜び、楽しいという言葉が出てくれば、それでOK。
今に充足できれば、あとは充足の流れに委ねて生きていけばいいから、何かに思い煩う必要はなくなっていく。