#174 石っこ賢さんと鉱山開発 【宮沢賢治とシャーマンと山 その47】
(続き)
産業革命期の釜石の製鉄に伝わる話は、遠野物語にでも登場しそうな不思議な話だ。
橋野の近くの栗林にある工場跡の中の神社には、祠のすぐ脇に、「初湯銑」と呼ばれる鉄が、御神体にように鎮座している。「初湯銑」とは、初めて出来上がってきた鉄の塊だろうか。
明治に繰り広げられたこのような伝承や、製鉄の身近にある信仰を目の当たりにすると、日本人にとっての鉄作りは、単なる物の製造とは意味合いが異なるのではないかと思わされる。
さらに時代を遡れば、それは神事に近いような行為で、金属の原料を生み出す一帯や加工技術が、信仰と結びついていたとしても不思議ではないと感じた。
このような鉱石を巡る出来事を見ていると、宮沢賢治に関して気になることがある。
それは、賢治が「石っこ賢さん」と呼ばれるほどの無類の石好きだったというのが、どこからきたのか?ということだ。少年時代の石への興味を抱いたまま大人になったように漠然と考えていたが、賢治は成人して以降も、人造宝石の販売まで真剣に検討する程で、少年時代の興味にしては、やや特異にも見える。
もしかすると、賢治を取り巻く環境の中に、石に興味を掻き立てるような環境もあったのではないか、とも思ってしまう。
釜石での出来事を見てもわかる通り、鉱石を発見し、それを製品化することは、国家的にも重要で、莫大な富を生む可能性がある。
花巻で財を成していた宮澤家の一族が、鉱物資源とどう関わっていたのか?
気になるところでもある。
【写真は、岩手県釜石市「栗橋分工場跡」の山神社の祠脇にある「初湯銑」と思われるもの】
(続く)
2024(令和6)年4月6日(土)
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