今度生まれ変わったらそのときは〜名前のいらない料理たち〜
柔らかな灯火、洒落た温度感を漏らす店が連なり、人が多くつどっている。
このゆるやかな上り坂の先も同じように賑わいを見せているんだろうと思っていたのだが、その店はやけにひっそりと佇んでいた。それでも水色にしたためられたファサードは目を引き、今夜の幕開けを期待させてくれるような存在感を醸し出している。
オープン時間とほぼ同時に扉を開いた。
店内にお客さんがいないのも相まってか、ちと早すぎたか、と思ってしまうほどに空間のシンプルさが際立つ。店のイメージにはなかった躍動感のある音楽が流れていて、その空間とのアンバランスさが逆にバランスを取っているような気がした。初めての店、そして一番乗りというのは、店の温度感を知らないままその空気に馴染んでいかなければならないような、ちょっとした緊張感がある。私は、その流れる音楽のグルーヴに自分の存在をうまくごまかしながら席についた。
と、メニュー表に書いてある。名もなき料理だ。
素材たちの面々がスンっと静かな自信に満ち溢れていて、私に想像力をふくらませる。見えるか見えないかくらいのほうが気になっちゃうエロチズム。ジッと見つめ合えば、それぞれの魅力に誘惑されて難航するチョイス。
そうだ。まずはドリンクを……っと、檜の香りがするビールだって? ギャルソン(サービススタッフ)のお兄さんがそれをオススメするのなら飲むしかない。そいでもってビールの名前が『TU DÉCONNES(チュデコンヌ)』? 店名を冠にしたオリジナルビールをバッチリオススメって、お兄さんやるね。その楽しい罠にまんまと引っかかり、チュデコンヌに片足を突っこんでしまった。
何がいいって活きがいい。お兄さんの活きがいいのだ。ジャパニーズ仕立ての敬語を使って接客しているが、この距離感はまさにフレンチ仕立て。何を質問したって軽快で、含みのある面白い笑顔で返してくれる。初めて会ったのに、初めて会った気がしない不思議な距離感。
テーブルに並ぶ料理が「きれい」だ。
大事に育て上げられた素材にしか出せない、内側から滲み出す品位のようなものを感じる。あのメニューがこんな姿で現れるなんてウソみたいだ。丁寧に盛り付けられていて料理もきっと喜んでいるだろう。奥のキッチンに見える、腕にタトゥーをこしらえた一見イカチそうなシェフがこれを作り出したというのもまたいい。そのギャップに、ふふふと気持ちが和む。
口に含めばわかるさ、そのすべてが。名もなき料理たちに名前がない理由だって。
豚のハムがクリーミーでとろんとろん。散りばめられたケイパーの酸味できゅっと引き締まり、そのまま流れるように白ワインをクイッと。
まるで飲茶の仲間みたいな丸い団子もやってきた。あれ? これなんだっけ? と改めてメニューを覗きこんだりして。大きなボールにたっぷりと、コクのある黄色いスープのようなものがセットになっている。よく見ると黄色のソースに隠れるようにオレンジ色のソースが2層になっていて、オレンジ色のソースはほんのりスパイシーらしい。やっぱりエロチズムがすごいぞ。君たちに名前はいらないよ。
「このソースは、次に出てくる鴨肉にも合いますんで」って、次に繋がる夢まで見させてくれる。
スルスルスルスルワインがすすむ。目の前のお料理と自分たちの時間に夢中になっていたが、いつの間にかほとんど満席だ。あ、どーも。って感じで入ってくるお客さんとか、やほ〜! って感じで入ってくるお客さんとか、実際にそうは言ってなくてもそう聞こえるように感じるのは、このお店に愛着を持っている人たちのフレンドリーシップが伝わってくるからかな。常連さんはもちろんのこと、初めての人もSay Hello〜!☺︎な気分になってしまうのだ。フレンチだからボンジュール? って、そこはご愛嬌で。
ここに、どうしてもまた来なくてはならない。まだ見ぬ麗しき素材たちが、どういう形に生まれ変わるのかを、この目で、この舌で確かめなければならないから。ううん、お願いだから味わわせて。驚かせて。チュデコンヌという沼に、片足だけじゃなくてもっと浸からせて。新しいお料理を見てきっと私はまた言うよ。「ウソでしょう?」って。
私たちの空いたグラスをジッと見ながら、「ワイン、もう一杯いきます?」って言うお兄さんの言葉が、楽しい圧をかけてくる。それは背中を押してくれるような嬉しい一押しのこと。もう一杯? もう一品? いつまでだっていけちゃいそう。
たんまりと楽しんだ。お店の出先までお見送りしてくれたお兄さんに「まったね〜、バイバーイ」と手を振った。あれ? 友達だったかな? うん、これはいい夜だね。
来たときと同じ坂道を下りながら、深まる夜の色に安心する。高まった心をひゅっと落ち着かせてくれるような静かな夜に。
後ろを振り返れば扉の水色がきらりと目に写り、さっき出来上がったばかりの思い出たちに心を踊らせる。
この楽しいステージの奥で、シェフたちが粛々と食に向き合い作り上げてくれている。なんて思うと、これまた痺れるな。