読書感想#49 【鈴木成高】「世界史観の歴史」
引用元:世界史の理論 西田幾多郎 西谷啓治他 2000年10月25日 初版第一刷発行
私の読み方
鈴木成高といえば、「京都学派」の主要人物に数えられる一人です。「京都学派」とは、西田幾多郎を筆頭に、京都大学の面々で発展・展開された、思想・哲学グループのことで、「唯一世界に通用し得る、日本独自の哲学」と、海外からも高い評価を受けています。特に、西田幾多郎にいたっては、今日再評価の声が高まっているので、名前を聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。中には、最近流行りの新実存主義(マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」などを参照のこと)を、西田幾多郎は先取りしていた、なんていう人もいるくらいです。その一方で、西田の弟子たちについては、まだ再評価されるには到っていないというのが現状です。今回取り上げる鈴木も、京大四天王の一人に数えられるだけの実績を残していながら、実際彼の本を手に入れるだけで一苦労という始末です。その意味で、今回の読書感想にて鈴木の本を取り上げること自体に、私は意義を感じてもいます。
ただ、ここまでいっておいて何なのですが、本記事は鈴木成高という人物の紹介・思想の解説を目的としているのではありません。あくまでも本書から汲み取った私なりの問題意識です。客観性や学術性を念頭においた、正誤を問われる方の要望にはお応え出来ませんこと、あらかじめご了承下さい。
なぜ今、世界史学が必要なのか
たしかに世界というのが、単に観念として存在するに過ぎなかった時代においては、世界は存在しないといっても問題ありませんでした。他国の存在がまだ輪郭を持って知られていない時代、自分たちの存在しか自覚されていない時代においては、世界は想像されるものでしかなく、現実的な関係を持つ必要などなかったのです。しかし他国との関わりが避けられなくなった時代においては、同時に世界が避けられないものとして君臨するのです。
一方で、世界という普遍的な観念の存在は、各個人に対して、個性が圧迫されるかも知れないという危機感を煽るものでもありました。世界史という統一の理念は、世界という究極目的に向かって個人をその素材とする、そのようなものであると考えられたのです。実際、そのような動きがなかったとはいえません。故に世界が観念的なものに還元されたのも、ある意味では仕方のないことでもあるのです。
ただその一方で、今や世界は現実のものとして存在しています。現実の事件として、世界は私たちを傷つけ、また私たちを救ってもいるのです。この事実を無視することは出来ません。しかればそれはただの空想となるでしょう。故に世界史学の樹立は、昨今の課題であると私は考えるのです。
今日のいかなる国も、他国との共存・対立・和平のもとに成立しています。その意味で、私たちは世界という繋がりにおいて自己を有しています。もはや世界性を抜きにして個人は考えられません。世界なきところで個人は現実から浮遊するのです。しかし逆にいえば、世界が自覚されるところではより深く自己が自覚されるともいえます。世界史的世界の誕生は、決して私たちにとって悪い話ではないのです。
世界史学=客観主義ではない
世界という存在が個を圧迫する如く作用するという話はすでにしましたが、これはひとえに、世界を一種の歴史学のように捉えているからに他なりません。すなわち、主観を排することによって客観性を極め、もっとも高位の段階へと到達することを目的とする、この限りにおいてそれは個を押しつぶす方向へと働くのです。これに対し世界史学というのは、自己を殺すことに客観性を求めるのではありません。それは以下、鈴木の主張する通りです。
すなわち換言するならば、自己は歴史によって作られたものでありながらも、歴史もまた自己によって作られるものであるということです。私たちは何も一方的に歴史に従属しているわけではありません。私たちも歴史の一部なのです。故に、私抜きの歴史学というものは本当は存在しません。その時点ですでに誤りなのです。鈴木は次のような一例を挙げています。
同様の意味で世界史学というのも、個によって形成され、個を活かすものであるのです。そこでは私たちは客観に徹する必要はなく、むしろ主体的な自己の在り方というものが求められます。そしてこの主観性によって世界史を創造し行く、かくして世界史学が樹立されるのです。
これはある意味では、個が世界となることであるともいえます。この主観的客観性の自覚こそが、世界史学なのです。
世界史学は、世界そのものを対象にするのではない
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