「文系」を揶揄中傷する人達への思い、その後。
先日、私は以前から下書きに保存してあったひとつのエッセイを投稿した。
ここに書いたのは、私が日頃投稿している晩酌やお弁当のフードエッセイでもなければ、ためになるような素敵なアイディア等を掲載した楽しい記事でも無かった。
思い出話でもあり、そして今現在の思いでもあるそのエッセイは、どちらかといえば振り返るには辛い思いも込めつつ書き上げたもの。
下書きを書き始めたのは、実は8月下旬のことだった。投稿するまでには、3か月以上を要したことになる。
届けたい人には、届かないかもしれない。
けれど、自分と同じように感じている誰かに届けば嬉しい。
そんな思いで書いたエッセイは、投稿から3日で閲覧数が300を超えた。
私がnoteに書いている記事の多くは、ありがたいことにフードエッセイ記事まとめやお酒記事まとめといった公式マガジンに加えていただくことが多い。そうした公式マガジンに入った記事は、300件以上のアクセスをいただいている。
けれど、今回のエッセイは、そうしたマガジンに加えていただいたわけではない。
にもかかわらず、その後もnote内はもちろん、note外からも多くの方々に読まれ続けている。
これは、予想外だった。
ありがたいと思った。
もちろん、読んでくださっている方々のすべてが、ここで私が書いたことに賛同しているわけではないことは承知している。
はっきり言ってしまえば、慌てて読みにきている人達の中には「文系」を揶揄中傷している側の方々もいることだろう。
現在、私はX(旧Twitter)を離れていることから確認は出来ないが、反論の引用リツイート等もあるのかもしれない。
しかし、私が書いたものをきちんと全て読んだ上で批判・反論をいただけるのであれば、むしろ、ありがたいとも思う。
私がこの記事を書くきっかけになったのは、今年8月下旬から放出が始まった福島県第一原子力発電所の廃炉処理に伴い発生した「処理水」の放出をめぐるやり取りの中で、処理水放出に賛成する側のSNS上のアカウントによる発言の数々だった。
誤解の無いようまず初めに申し上げるが、私は処理水の放出に賛成の立場である。
その安全性についても、国内に限らず海外の公的機関による審査結果等の様々な情報を確認した上で正しく理解している。
科学的に立証された安全性を認めようとせず、感情論に終始してデマを拡散し不必要な不安を煽り続ける一部の文系大学教授や著名作家、社会学者に対しては、私も憤りを覚える。
このnoteでも度々書いてきたが、市場に出荷されている日本近海の水産物が福島第一原子力発電所の事故による放射能により人体に影響を与えるレベルに汚染されているという事実は無い。
安全性は確認されており、健康被害も出ていない。
このことは、noteを始める前はSNSやブログで、今年になってからはこのnoteでも、微力ながら繰り返し情報発信し続けてきた。
その点において、私は福島県を応援する側の人々と同じ立場にいた筈だった。
しかし、先述の処理水放出をめぐるSNS上でのやり取りの中において、デマを発信する一部の文系大学教授等を批判する側の人々の中に
「自分」ではなく「被災者」「福島県民」と主語を大きくし、
一部の文系大学教授や社会学者によるデマに対して「文系」とひとくくりにレッテルを貼り
「文系は科学を理解出来ないからデマに加担する」
「マスコミは文系で頭が悪いから科学的な考えが出来ない」
「文系などいらない。社会学などという学問は不要。」
等、誤った認識に基づくデマの発信者に対して個別に反論するのでは無く、まるで「文系」に属する全ての人が福島県を差別しデマを流しているかのごとく批判し、「被災地」の総意として「文系」「社会学」への誹謗中傷発言を連発するアカウントが多数現れた。
また、それを諫めるどころか、イイネを押し賛同・拡散する多くのアカウントも。
デマを否定する側・福島を応援する側だった筈のアカウントが、それまで12年間に渡って自分達が批判してきた筈の
「主語を大きくして発言する」
「レッテルを貼り批判する」
というツイートを連発(乱発)するのを目の当たりにしたのが、処理水放出をめぐるやりとりだった。
挙句、デマはやめましょうと自己紹介に記している福島応援アカウントが東京都の下水処理に関する悪質な動画を拡散して「(東京の海産物より)処理水の方がマシ」と発言したり、福島県在住の某インフルエンサーが「福島の魚を買いたいのに○○には三陸産しか無くてガッカリ!」と発言し、その店への抗議を呼びかけているのを目にして、私は残念というレベルを超えて憤りを覚えた。
尚、下水処理の問題については、私の専門分野でもあるので、ここnoteで解説させていただいた。
デマを否定するために別のデマを持ち出すのは、愚の骨頂だろう。
一度失った信頼を取り戻すことの難しさは、12年以上の長きに渡ってデマを拡散してきた現在の一部野党政党がかつての支持者達からも多くの支持を失っている現状を見れば明らかである。
デマはやめましょうと言いながら下水処理に関連する悪質な動画に賛同し拡散していたアカウントは極端な例だが、この時期のXにおいて私が当時フォローしていたアカウントの中では、デマを否定するという「正義」のためならどんな発言も許されるとばかりに文系批判をしている者達は枚挙にいとまがない状態だった。
誰かが大切にしている学問を罵倒し、誰かの学舎を不要だから無くしてしまえと平然と言い、誰かの仕事を揶揄中傷するような人達による「福島応援」。
そんなものを、福島県で暮らす全ての人達が本当に望んでいるのだろうか?
そもそも、福島は、広い。
そこでは多くの方々が暮らしている。
「総意」など、簡単に言えるのだろうか?
私は、そうは思わない。
実際、その後で福島県に足を運んだ際も、他県民だからと嫌がられる事もなければ、noteを通して私が文系出身であることを知っている人から何か言われるようなことも無かった。
当然である。
働いて暮らす日常に忙しい人達は誰も、SNSなど気にしていないのだから。
私はこれからも、これまでと変わらず宮城で暮らしながら、福島であれ他県であれ自分の好きな場所に足を運ぶだろう。
美味しい魚を食べたいと思えば、県内はもちろん、福島にも茨城にも岩手にも出かけていくだろうし、近所のスーパーでも福島県産の魚を見れば三陸産と同じように買ってきて食べる。
もっと言えば、私は、2011年から今に至るまでずっと、福島県を含む東北産の海産物も農畜産物も美味しく食べている。
北海道で暮らしていた頃から今に至るまでずっと、それは変わらない。
もちろん、これからも食べ続けるだろう。
それが、私にとっての日常だ。
けれど「福島」にまつわる言論には、もう関わりたく無い。
東日本大震災と、その後の福島第一原子力発電所の事故発生以降、風評とも戦いながら生産・出荷を継続してきた三陸をはじめとする国内の他地域を
罵り
レッテルを貼って批判し
「自分達だけが被害者だ」とでも言いたげな言論を乱発する
そんな、一部の反デマ(にして半デマな)活動家・ジャーナリスト・インフルエンサーとは、距離を置こうと思う。
今、東北の、福島県産の水産物に対しての安全性を正しく理解した上で、応援したいと思っている多くの人達が、ここnoteにはいる。
文章を読んだり書いたりする事が好きな方々や、社会学を学びバリアフリーの社会を作ろうと尽力されている方々が、noteにはたくさんいる。
そんな方々が、私の日常を見て、「三陸や常磐の魚、美味しそう」「宮城も福島も楽しそう」と思っていただけたら、嬉しく思う。
それは、デマを発信し続ける者達に過剰な罵倒を浴びせるよりも、ずっと有効で有意義な反論になるだろう。
私は、そう思っている。
あの甚大な被害をもたらした原発事故があったにもかかわらず、「反原発」活動家達が多くの支持を失ったのは、彼らの多くがデマを並べ、科学的な見解を無視し、被災地で暮らす人達に対して
「5年後に死ぬ」
「10年後には死ぬ」
「将来はガンになるかもしれない」
と、呪いのような言葉を吐きかけ続ける「反被災地」活動家に成り果てたからだった。
今、「文系」「社会学」への行き過ぎた罵倒を続けている人達は、同じ轍を踏みたいのだろうか。
正義のつもりで自分が石を投げつけてきたものが何なのか、今一度、立ち止まり振り返っていただけることを願っている。
お読みくださった方々には、あらためて御礼を申し上げたい。
皆様、ありがとうございます。
※追記
大学時代の中国文学の講義について書いた過去のnote、あらためてお読みいただければ幸いです。