『流し』とは
流しとは。
芸を通して、お客様が楽しく、お店が儲かり、盛り上がり、街が華やぎ、また来たくなる、誰かを連れて行きたくなる、エンターテイメントを提供する者、と私は思っています。そのエンタメ方法は、色んな個性があります。話術で笑わせる、歌で泣かせる、顔がいい、声がいい、雰囲気がある、色っぽい、その方法は何だっていいと思います。歌い手である必要すらないと思っています。似顔絵、ダンス、手品、占い、愚痴聞き屋、需要と供給の成り立つものなら、なんだってありだと思います。
よく『流しとは、こういうものだ』と、他の流しを直接知っている人から言われます。
例えば、お客様を立て、出過ぎず、ワザと下手に歌ったり、お客様がいい気分になるように伴奏して歌わせ、同時にお店の人も立てて、決して自分を売り込まず、謙虚の塊だ、最終的には、それが流しの伝統だ、とか。それは、その流しさんの御家芸な芸風であり個性で、それがエンタメとしてウケていたのなら、それは一つの方法として間違っていないと思います。そのスタイルを、長年の経験と、自分の個性との兼ね合いで、苦労を重ねて、その人が確立してきたエンタメの一つの型。敬意を表します。
流しの全てが、そうあるべきというのは、ラーメン屋の親父は頑固でなくてはいけない、とか、咄家は借金まみれでなくてはいけない、とか、子供は愛らしく朗らかで健やか素直でなくてはいけない、とか、女は云々、男は云々、要するに思い込みであり、ステレオタイプジョークとしてなら面白い場合もあるけど、それに比べてあなたは云々、などと全ての人に当てはめて押し付ければ、無茶で横暴な強制であり、偏見、誠に没個性で画一的で封建的で、むしろそれこそ冗談みたいなステレオタイプ、つまり平たく言っておかしな話です。
そもそも、その謙虚なスタイルを確立したその人が、何故そのような芸風を身につけて来たのか。師匠もある意味そんな芸風を売りにしておりましたが、それは社会に揉まれストレスを抱えたお客様が、流行が廃り社会的弱者になっていった流しに、捌け口を求めて、求めに応じなかったらお金がもらえなかったからであり、イジメに耐えて、奥歯を噛み締めて、靴に酒を注がれて飲まされて、お金を得てきた、苦肉の策の歴史だと、おっしゃっておりました。割り切って芸風として身につけるまで、どんな理不尽と戦い、ボロ雑巾のようになったプライドを毎日洗濯し、新しいプライドとしての芸風を確立してきたのか、考えただけで、畏怖を覚えます。師匠の口癖は、『流しは河原乞食だから』でした。そう思っていれば、気持ちが楽になるのだ、と。かと言いつつも若者からのからかいに、プイッと店を出ていってしまったり、お店の方の気遣いを馬鹿にされてると感じて二度と行かないと決めてしまったり、諦めと、プライドの狭間で最期まで闘っていました。
流しとはこういうもの、と仰る、戦後の生き残りの流しと直接触れ合ってきた生き証人の方々は、たまたまそんな『謙虚な』芸風の流しと出会っただけであり、また、古き良き時代の流行から外れても尚、手段を選ばず生き残り続けてきた年老いた流しの苦肉の策に触れただけに過ぎません。その人も若かりし頃は、スターでした。見下されれば怒り、虐められたら、やり返し、自らの仁義や誠意を信じ、そんな金は要らないとプライドを優先させていたに違いありません。実際、師匠もそうだったそうです。彼は、晩年の芸風としては低姿勢で謙虚を通り越したちょっと捨て鉢な卑屈さで、何なら可哀想なお爺ちゃんキャラを使って、可愛いがられる術を巧みに編み出していましたが、素顔は鬼のようにプライドの高い人でした。やけっぱちなくらい。激しく。苦渋の憤りの反動なのかもしれないと思っていました。
私も、私の芸風をこの10年探って参りましたし、これからも掘り下げて探究して参りたいと思います。勿論、変なプライドや高飛車は無用の長物ですが、ワザと下手に歌ったり、理不尽な扱いや、ストレスの捌け口や、虐めに耐えてまで、お金をいただかなくてはならないような芸風は、心から応援してくださるファンの方に失礼なので、絶対に有り得ません。それが流しだろ、と言われても、やんわりと受け流したいと思います。
私はその芸風を身につけてきた苦労人その人ではなく、私だけの芸風、もっと沢山の人に愛され、喜ばれ、大切にされ、沢山の人を愛し、喜ばせ、大切にし、お互いの健闘を讃え合い、売り上げに感謝し合い、みんなが幸せになれる形を追求できる芸風を身につけて、磨いて行きたいと思います。なかなか空気を読めず、機微を分からず、トンチンカンな受け止め方をしがちな、とぼけた私ですが、そんな私だからこそできる朗らかで健やかな道を、あっけらかんと踏み締めて行きたいと思います。それで上手くやって行けなくなったら、その時はその時。お金がもらえなくて、飢えて、にっちもさっちも行かなくなったら、再調整したり、修正したりして勉強していきたいと思います。でも、私は私です。誠心誠意、日々精進、目の前に広がる世界と向き合い、真面目に生きて行きたいと思います。
勿論、芸風への『好み』はあると思います。アイドル好きもいれば、パンクじゃなきゃ音楽じゃない、ロックこそ魂の叫び、とか、女優は幸薄めが色っぽいとか、飾る絵は現代アートがいい、歌舞伎は古典が1番!とか、懐メロがいい最近の若者の流行はワカランとか、歌は歌詞が大切、でも日本語のラップはむず痒いとか、それこそ千差万別、例を挙げていけば、枚挙にいとまがありません。全ての人間の好みに合わせられる芸はありません。お気に召すまま、お客様の全てに応えられるお店もなく、高級フレンチと焼き鳥屋とオーセンティックバー、様々なジャンルの趣向で、要望用途に合わせてお客様はお店を選び、普段は居酒屋で記念日には奮発して、オリンピックはスポーツバーで盛り上がる。お好みの場所とお好みの人に、人はお金を落としたい願うものです。
私は、様々なジャンルのお店を回り、様々な要望用途を求めるお客様を、ご縁のある手札の中からにはなりますが、お好みに合わせたお店にご案内し、私のできる限りのおもてなしとエンターテイメントを提供して、街全体にとっての付加価値となり、一人でも多くの人の『お好み』の場所と人となり、お金を使っていただきたい、それが私の仕事であり、流しの流儀です。
コロナが落ち着いてきて、流し営業も無事復活。まだまだ街にお客様は戻りませんが、新しい街での新しい出会いや、学びを活かして、新しい一歩を一歩ずつ進めて参りたいと思います。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
今後とも、荒木ちえを、どうぞご贔屓によろしくお願い申し上げます。