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−寿司屋のこばなし− 光代大女将からみた一心鮨光洋誕生秘話
これまで私からみた父のことをお話ししてきましたが、今回は大女将である母、光代に当時のことを聞いてみました。
家族の歴史のようなものを聞く機会って、そんなにしょっちゅうないと思うので、「ああ、そうだったね。。。」「懐かしいね」とそんな家族の時間を持てました。大まかな歴史ではありますが少々長いです。それでもぜひお読みいただきたい内容ですので、お時間のある時にゆっくりと読み進めていただければと思います。
私たち夫婦の最初のお店一心鮨(本店)は常に活気に溢れていました。
お客様が毎日たくさん訪れてくださり、狭い店内では入りきれず、お客様が列を作り、名前を書いていただく紙を用意して、「次のお客様どうぞ」と順番にご案内するのが日常でした。
やがて、駐車場が足りないという問題が浮上しました。宮崎港の整備が進み、店の前の道も広くなり車の往来も増える中、夫、一高(かずたか)は
「土地を買って駐車場を作らなければならないのではないか。」
と悩み始めました。しかしその時もうすでに、新しい駐車場を3つも確保してたんです。
そんな時、夫が東京へ向かう飛行機の中で、常連のお客様である社長と偶然再会しました。店の相談をすると、その社長から
「駐車場を考えるより、いっそ店を移転した方が楽じゃないか。」
とアドバイスを受けました。その一言で、夫は決断し、新しい土地を探し始めたのです。そして、昭和町にあるカドヤというスーパーが競売にかかっていることを知り、夫はその土地を競り落としました。
こうして建物を解体し、新しい店舗を建てる計画が動き出しました。
新店舗の建物の設計には紆余曲折がありました。私たちが求めていたのは温かみのある店でした。しかし、最初に依頼した設計士はパチンコ屋のようなデザインばかり提案してきたのです。
「そうじゃないんだ・・・」
想いが伝わらず、もどかしい気持ちでいた時に、知人の紹介で別の設計士の方とご縁がつながりました。そして、その方は私たちの理想をしっかりと受け止め、実現してくれたのです。
設計図が出来上がるたびに、私たちも未来の店舗に胸を躍らせました。
夫は「何かを残したい」という強い情熱を抱き、この店を家族全員で築き上げることを誇りに思っていたのです。
しかし、新しい店舗の計画には家族内でも反対の声が上がりました。
特に私や一洋は、新しい店を作ることに不安を感じていました。
多くの投資と労力をかけて果たして成功するのか?
夫の情熱に応えられるのか?
そんなプレッシャーが大きかったのです。
私たちは何度も話し合い、最終的に夫の夢、情熱に押され、新しい店の計画を受け入れることを決意しました。
と同時に、店の名前をどうするか?という大きな決断を迫られました。
一心鮨 光洋
最終的に選ばれたこの名前には、家族の深い思いが込められています。
「一心」は、家族全員が「一つ心になる」という意味を持ち、夫、一高(かずたか)が長年の思いを込めて命名したものです。
「光洋」は妻である私、光代と四男一光の「光」、長男一洋の「洋」から取りました。また、お座敷には次男の一成、三男の一樹、祖父母である一好と美穂の名前を一文字ずつ付け、私たち家族がこの店に全力を注いでいることを象徴しています。
俺は、ゆっくりとした時間の中で、心も口も豊かになる食事を提供したいんだ。それが俺の夢だ。
こうやって夫の夢を実現する、家族一丸となって未来を描いた、新しい店舗が完成しました。
しかし、その想いがすんなりとお客様に受け入れてもらえたわけではありませんでした。ゆっくりとした時間を叶えるために、とお客様にお願いした、タバコ禁止や子連れ禁止のルールが一部のお客様には窮屈に感じられたのです。結果として、常連のお客様が離れていくという予期せぬ問題が発生したのです。
「お客様を喜ばせたくて始めた店舗なのに・・・」
夫にはそんな葛藤もあったと思います。それでも私たちはお客様を向いていこう、と常連様を呼び戻すために、再び本店をオープンすることを決断。夫は本店に戻り、私と一洋で「光洋」を支えました。
新店舗と本店の両方を運営する中、資金繰りは厳しくなり、支払いに追われる日々が続きました。事務員も何度も交代し、蓄えたお金も尽きかけていました。それでも、家族全員で力を合わせ、店を支え続けました。
特に一洋は経験が浅いながらも大きな責任を背負い、「光洋」の責任者として店に立ちました。(当時27、8歳くらいだと記憶しています。)
店をどうにか盛り立てたい、と試行錯誤というよりは、暗中模索・悪戦苦闘していました。その中で挑戦した、初めてのおせち料理。400個もの注文を受けることが出来ましたが、結果は大きな失敗に終わり、1,000万円以上の赤字を出してしまいました。(あの時の辛さは今でも忘れられません。)
それでも、一洋は毎日学び、試行錯誤を重ね、他の寿司屋で1日研修を受けるなどして技術を磨きながら、少しずつ店を立て直していきました。
今では業界で当たり前になっている熟成技術も、この時期に生み出したのです。
お客様があの広いカウンターに一人でも座ってくださると、私と一洋は手を取り合って喜びました。オープンしてから数年はほとんどカウンターにお客様が座ってくれなかったんです。皆様お座敷を好んでお使いになられたんですね。
また髪の毛が料理に入っていたという苦情を受け、一洋は坊主にして気合を入れ直しました。毎日苦情に泣きながらも「何が悪かったのか」と自問自答し続けました。地方で(しかも宮﨑という場所で)あの時代に高級江戸前寿司に挑むというのは、非常に勇気のいることでしたが、家族全員の力で店を維持していくしかなかったのです。
一喜一憂しながら必死に過ごす日々の中、夫、一高との別れがやってきました。まるで命が入れ替わるかのように、夫が亡くなったその時、一洋の第三子が誕生しました。夫が去り孫が家に戻るその瞬間、私たちは新たな時代を迎えたと感じました。そして各地で修業していた一樹と一光が帰ってきてくれたんです。
夫のいない一心鮨本店。
店を閉める決断は、それはそれは身が千切れるほど苦しかった。。。
それからの生活は一層厳しさを増しましたが、夫の情熱を受け継ぎ、私と息子達4人で一心鮨光洋を守り続けました。
今振り返るとあの時の苦労があったからこそ、現在の「一心鮨光洋」があると感じます。この店は単なる商売の場ではなく、家族の絆が生んだ一つの奇跡です。そして、私は四男一光に「一心鮨光洋」を託し、彼がこれからも新しい希望を胸に、「一心鮨光洋」をさらなる高みへと導いていくと信じています。