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第2話 とても大切な先代、父 木宮一高のこと。

私は現在46歳。
21歳からスタートした私の寿司の修行も25年を迎えることとなりました。
私の寿司修行は宮崎県宮崎市からスタート。今は亡き木宮一高(かずたか)が53年前(1971年)にオープンした、実家である【一心鮨本店】から始まりました。

私の家は祖父母、両親、男兄弟4人と、とても賑やかな家族でした。
日々何かしら怒号が飛び、喧嘩はもちろん叱られるハプニングな毎日。
学生の頃はラグビーもしていたので、毎日朝と夜は米一升をそれぞれ消化。素麺は50束を平らげる大喰らいの家族でした。笑

そんな私がすしの話をする前に、どうしても外せない、とても大切な先代。
父、木宮一高(きみやかずたか)の話をしますね。
ここが全てのスタートなので。

私の父は5歳の時にポリオにかかり福岡市の九州大学病院に緊急入院したそうです。宮崎から福岡への移動、入院費、そして生活費。祖父は父の命を救うために、自分が戦後起業した会社を売却し、そのお金で家族を、父を守ったと聞いています。無事に命が助かった父ですが、右足が動かなくなり身体障害者になってしまいました。(また祖母からは、祖父は全くお金がなくなってしまい晩年とても苦労した、と聞かされました。)

片足しか使えなくなった父は、幼少期から差別を受け苦労したと聞いてます。しかし持ち前の明るさと人懐っこさで愛される人となり、中高生の時は近くの大淀川で周りの人が知らない人がいないほどの潜りの達人となり、よく鰻や魚を突いて食べたりしてたそうです。
そういう生活から、父は「将来は魚屋かすし屋になろう」と心に決めたそうです。そして父はすし屋を選択、高校卒業後、集団就職で東京板橋の【栄寿司本店】に就職しました。祖父と板橋駅で別れる際、お互いに涙が止まらなかったと聞いてます。(余談ですが私も自身も修行の最中、板橋駅のホームに立ち、「ここだったんだ・・・」って感慨深い想いも経験しました。)

東京でも片足しか動けないことのハンデがあり、相当叱られたり差別されたそうです。しかし父はやり抜き、8年の修業後宮崎に帰郷。昭和48年(1973年)3月3日、父が26歳の時に宮崎市昭和町で【一心鮨】を開店しました。
【一心鮨】は、
心を込めて一心にすしを握って喜んで頂けるすし屋になろう。
と決めた屋号。また、
みんなで心一つ「和」になろう。
という意味も込められていました。

その後母と結婚。開店から5年目の夏。
昭和53年8月に私が生まれました。

この父の元に生まれたことが、すしとの出会い、ご縁です。
もし父が魚屋になっていたら、私はすしの道を歩んでいないかもしれない。
だから「全てのスタート」なんです。


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