正解依存症、或いは不正解恐怖症のあなたへ
上司が愚痴をこぼしていた。
若いお客さんの接客をした際、
「これってどう飲むのが正解ですか?」
と聞かれたらしい。
断っておくが、何の変哲もない、ただのココアである。やたらと華美なトッピングが施された鑑賞品と見紛う代物ではない。ただのココア。
我が上司はいたくその質問が気に入らなかったようで、暫くの間愚痴を撒き散らしていた。何度も同じ愚痴を繰り返されるのは不快だが、気持ちは分からないこともない。私も対面でそんなことを聞かれれば返答に困るし、「好きに飲めば?」とでも言ってしまいそうである。
こんなドリンクの飲み方一つとっても正解を求める。その客人が特異な人であるとは、私は正直言い難い。
飲食店勤務ゆえ、アルバイトの学生と接する機会も多い。先日も新しく学生が働き始めたのだが、その学生は、
「非効率的なことが嫌い、効率的なことだけやりたい」
というような主旨の発言をしていた。
その学生は珈琲が好きというのもあり店でアルバイトをしようと思い立ったらしい。珈琲などという究極の嗜好品に魅了されていながら非効率を嫌う矛盾に茶々を入れたい気分であるが、「効率的なことだけをしたい」という精神性は、魚の小骨のように私の心に引っかかっていた。
そしてふと、周りを見渡してみると、どうだろう。
「頭の良い人の〇〇の仕方」
「効率の良い〇〇法」
「科学的に正しい〇〇」
「成功者100人に聞いて分かった〇〇の法則」
このような見出しの記事や動画、書籍が数多く散らばっている。元々こうした尤もらしい、正しい情報ですよと謳っている怪し気な話は散見されたが、近頃は特に多いような気がする。
それだけ、世の中では正解や効率を求めているのか。
間違いを犯したくないという気持ちは痛いほど分かる。時間を無駄にしたくないという思いも常にある。だから正解を求める気持ちも理解できる。
しかし、そればかりでよいのだろうか。
私自身、こういった正解らしき情報を頼らない訳ではない。むしろ頼りきりである。出来るだけ手順や道のりをショートカットしたいというのは人間の本能なのかもしれない。
以前紹介した確証バイアスもそうだが、人間の脳にはいくつものバイアスがかかっている。正しい認知を歪めるものが何故実装されているのかと言えば、脳の可動効率のためだ。一々全ての可能性を考え、吟味するよりも、今までの経験や学んだ法則から答えを類推する方が効率が良い。そうすることで、より高次の考えや身体活動にエネルギーを費やすことが出来る。脳と身体の構造からして、我々は効率を求めている。
既に証明されている公式を使わず手作業で計算するのも、既に安易な方法が確立されている技術を使わずスピードランで世界一を目指すのも、どちらも愚かしい。ショートカット出来るところはすればいい。先人の教えを仰がないでどうする、というのが私の意見である。
では何故、効率ばかり求めることに疑問を覚えたのか。
脳が効率を求めるのは、余計なエネルギー消費を避け、その他の身体活動にエネルギーを回すためだ。数学で既に示された公式や公理を使うのは、そこが本論ではなく、より深遠な問題を解決するためだ。スピードランナーが血眼になってフレーム技を練習するのは、より速いタイムを求めるからだ。
では、質問だ。
あなたが効率を求めるのは、何のため?
正解らしき手法でショートカットをして、その先に何を求める?
私が正解や効率を求めるのは、省略できる過程を省略して、学習から得られたことから新しい着想を考えたり、よりよい改善方法が無いか試行錯誤したりするためである。そういう試行錯誤が楽しいから、他の人の正解や効率の良いやり方を知りたいのだ。
あなたはどうだろうか。私と同じように、何か明確な目的があって答えや効率を求めているのだろうか。もしそういう人ばかりであれば、きっと心配する必要は無いだろう。
しかし仮に、ただ単に答えを求めているだけだったとしたら。そして、そういう人の数の方が多かったとしたら、少し苦言を呈したい。
単純に正解らしきものに飛びつくことの害は、幸いにも多くの歴史が語っている。ここでは科学にまつわる出来事を中心に、正解と間違いにまつわる騒動を見ていこう。
1.世界は何から出来ている?-古代ギリシア-
ご存知の通り、この世のあらゆる存在は原子から成る。
原子は更に細かく分けられ、厳密には「物質を構成する最小単位」ではないのだが、「あらゆるものを構成する最小単位」という考えは、実は大昔から存在していた。
どれくらい昔かと言えば、古代ギリシア。紀元前5世紀頃の話である。
古代ギリシアでは「世界は何から出来ているか」ということを考えるのが流行していた。水や空気、火などなど、「世界は〇〇から出来ている」と主張する者たちが、日夜議論を繰り広げていた。
その哲学者達の中に、レウキッポスとその弟子デモクリトスが居た。彼らは、物質はそれ以上に細かく出来ない何か(=原子)から出来ていると考えた。
ものを細かく分解していったとき、無限に分解できるとするなら、分解した先にあるのは質量を持たない粒のようなものが残るだろう。その粒をいくらくっつけようとしても、質量を持たないのだから質量を持った何ものかにはならない。であれば、分解できる数は有限であり、どれだけ小さくとも質量を持っている何かが残るはずだ。そしてその何かは、それ以上は分解することが出来ない。世界の全ては「最小単位の何か」が集まってできている。
彼らはこの最小単位を「アトモス」と呼んだ。アトモスとは「分解できないもの」の意味を持ち、原子の意味を持つ「atom」の由来となっている。
当時はまだ化学や物理学なんて言葉も出来ていない時代であるのに、この発想が飛び出てくるとは驚きである。この考えが根付いていれば、もしかしたら原子の発見は前倒しになっていたかもしれない。
しかし彼の説はある哲学者に批判される。
「万学の祖」と称され、西洋最大の哲学者のひとりとして名高い人物、アリストテレス。彼はデモクリトスの原子論を批判し、世界は火・水・空気(風)・土の性質で出来ているという四元素説を提唱した。
哲学者同士で批判し合い、本当の知を求める。さぞ自然な行いだ。アリストテレスもそれだけ持論に自信があったからこそ否定したのだろう。
しかし、アリストテレスがあまりにも偉大過ぎたおかげで、「アリストテレスが言うんならそうなんだろう」と他の者も追随し、四元素説が時代の潮流となってしまった。原子説自体はデモクリトスの更に弟子たちに引き継がれたようだが、その後の宗教的弾圧もあり、デモクリトスの遺した書籍は散逸してしまった。アリストテレスに負けず劣らず広範囲の学問について記していたようなので、非常に残念なことである。
その後、ドルトンにより原子論が唱えられるようになるまで、実に2000年以上の時を経る必要があった。その上本当に原子が存在すると分かったのは20世紀になってから。アインシュタインが微粒子の不規則な運動(ブラウン運動)は分子の衝突によって起こっているという論文を発表して、ようやく原子は本当に存在することが明らかになった。それまでは原子の存在は徐々に示唆されながらも、「計算を便利にするための便宜的なもの」という考えに終始していた。
世界は極小の粒で出来ている、ということは、科学者ですら信じていない人の方が多かったのだ。それが真実であったにも関わらず。
2.太陽が動く? 地球が動く?-ルネサンス期-
地球は自ら回転しながら、太陽の周りを回っている。これもまた、周知の事実である。我々はこの自然の摂理を地動説と呼ぶ。
そして当初は地球を中心として、太陽が動いているという天動説が主流だったこともまた、皆さんご存知の通りであろう。
天動説の始まりは2世紀頃。プトレマイオスが肉眼での観測結果や古代の天文学の知識を結集し、「アルマゲスト」を著した。紀元前に既に地動説を唱えていたアリスタルコスという人物も居たのだが、プトレマイオスの著作は彼の地動説を否定するだけのデータと説得力を持っていた。地球を中心として周りの天体が動いている、という考え方は感覚的にも捉えやすく、その後強大な力を持つキリスト教の考え方とも合致したために、その後1000年以上に渡って天動説が支持された。
それが破綻し始めるのは15世紀頃。新大陸や新航路の発見に躍起になっていた時代だ。コロンブスがアメリカ大陸に到達したくらいの年代、と言えば分かりやすいだろうか。
陸地の見えない海上を渡るには、羅針盤と星表が必要不可欠である。方位と星の位置さえ正確に分かれば、孤独な大海原でも迷わずに済むのだ。当時、羅針盤は信頼できる水準であった一方で、星表は誤差が大きく、頼りにするには少々問題があった。
それだけでなく、暦の上でも問題が生じていた。当時使用されていたユリウス暦は一年の長さが僅かに足りていなかった。この僅かなずれが蓄積されていった結果、暦の上での季節と実際の季節の間に約十日ものずれが生じていた。この件は既に300年程前に指摘されていたのだが、解決方法が分からず放置されていた。
時代が下り、様々な学問が発展するにつれ、天動説に限界が見えてきた。この現状を打破したのがコペルニクスである。彼は「アルマゲスト」を読み耽り、自分でも天体を観測し続けた。その結果、天動説では説明のつかない動きをする遊星を確認した。その後も観測と計算を続けた結果、太陽を中心として考える地動説であれば暦の問題も解決できるし、他の天体の謎にも説明がつくと考えた。カトリックの司祭であった彼は、キリスト教の教えに反する考えである地動説の公表を躊躇い、自らの死の直前になってようやく地動説の考えを公表した。
コペルニクスの計算結果を元に、ユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦されたが、それでも地動説を受け入れる土台が出来上がった訳ではない。固定概念を変える難しさ以外にも、コペルニクスの書籍は理論書に近く、暦の算出は出来ても惑星の動きを完全に計算することは出来なかった。
それからコペルニクスの弟子以外で、地動説に対し明らかな賛同をしたのは二名。ケプラーとガリレオである。ケプラーは当時最新鋭の機器から齎された観測結果を元に、惑星が楕円軌道を描いていることを突き止め、正確な星表を作り出した。ガリレオは木星の衛星や金星の満ち欠けなどを発見し、地動説に有利な証拠を見つけた。そして最終的にニュートンが重力を発見し、慣性力を定式化したことにより、地動説の地位は盤石なものとなった。
このように、それまで正しいとされていたことでも、上手く説明がつかない出来事が現れ、新たな理論に塗り替えられることがある。
このニュートン力学も後々矛盾が生じる理論が発見され、新しい理論の発見へと繋がることになるのだが、それはまた別の機会に。
3.扉を変えるべきか、変えざるべきか-現代-
一気に現代まで時を進めて、1990年。
「Parade」という雑誌に投稿された、一つの些細な疑問が、後に大きな騒動へと発展することになる。まずは問題の投稿を見ていこう。
この投稿はモンティ・ホール氏が司会を務める「Let's make a deal」という番組内でのゲームについての質問らしい。
この質問について、「Parade」にてコラムを連載していたマリリン・ヴォス・サヴァント氏は、「変更した方が正解の確率が二倍になるから変更すべき」と回答した。
そしてこの回答が掲載された直後、数学者を含む多くの人達から投書が届いた。
「1/3から1/2になるだけで二倍にはならない!」
概ねこのような内容の投書だ。確かに、直感的に考えれば、最初の選択では1/3、次の選択では1/2となり、確率が二倍というのはおかしいように思われる。
だがしかし、直感に反してサヴァント氏の答えこそが正しいのだ。
簡単な確率の話である。
まず、三つの扉をABCと名前を付け、プレーヤーは必ずAの扉を選ぶと仮定する。
まず、Aの扉が正解である場合。ABCの三つの扉のうちAが正解となる確率は1/3である。次にモンティ氏が外れの扉を選ぶとき。外れの扉はBとCの二つあるので、1/2の確率でどちらかの扉がはずれだと示される。
同時に成立しなければ為し得ない事象の確率の場合は、ひとつひとつの確率の積で表される。よって、正解の扉を選び、かつ特定の外れの扉を提示される場合の確率は、
1/3×1/2=1/6 ――①
同様に、Aの正解の扉を選び、かつモンティ氏が外れの扉としてCの扉を示す場合の確率も1/6である。 ――②
続いて、Bの扉が正解である場合。Bの扉が正解となる確率も同様に1/3である。
次に、外れの扉を指定する。プレーヤーは確実にAを選んでおり、Bは正解。となればモンティ氏が提示する外れの扉はCの扉の一通りしかない。
よって、
1/3×1=1/3 ――③
同様に、Cの扉が正解である場合も、確率は1/3である。――④
それぞれの起こり得る確率が定まったので、今度は選択を変えない場合と変えた場合の、正解を当てる確率を考えてみよう。
最初から正解の扉を引いている場合は①と②の時である。一つの物事が起きる確率は、あらゆる場合の確率の和から求めることが出来るので、
①+②=1/6+1/6=1/3 ――⑤
次に、最初に不正解の扉を引いている場合は③と④であるから、
③+④=1/3+1/3=2/3 ――⑥
後者は最初から不正解を引いているので、言い換えると「扉を変えたとき正解となる確率」である。最初から正解を引いているときの確率⑤と比べて、扉を変えたとき正解となる確率⑥が二倍になっているのがお分かり頂けたかと思う。
ただし、これは不正解の扉を開ける人物が確実に1/2の確率で不正解の扉を選択する、という前提条件が必要となる。モンティ氏は人間なので、当然意地悪な気持ちがあったり一定の行動パターンがあったりする可能性もあるだろう。恣意的に不正解の扉が選ばれる場合も同じことが言えるのだろうか?
詳しい計算は省くが、モンティ氏がどういう傾向を持っていようとも関係なく、扉を変更して正解を引く確率は2/3となる。故に扉は変更した方が良いということになる。
最初から正解の扉を引いたとき、不正解の扉のどちらを示すかの確率が1/2である、という前提さえあれば、子供でも解けてしまう問題である。その前提が無いから揉めに揉めたという話もあるが……。
結局サヴァント氏は幾度か反論記事を掲載するのだが、それでも批難は収まらず、遂には性差別問題にまで発展する。最終的に、コンピュータを用いたシミュレーション結果がサヴァント氏の答えと一致したことにより、ようやく彼女を非難していた人達は自分の非を認め、事態は鎮静化した。
現在ではモンティ・ホール問題と呼ばれるこの問いは、直感と論理が異なる答えを導く好例とされている。
サヴァント氏を批判したのは、一般人のみならず数多くの数学者達も含まれていたことを考えるに、直感と論理の乖離は誰にでも起こり得る問題のようだ。人間なのだから当然のことだが。
「正解」を巡る様々な論争の旅に付き合って頂き感謝する。
賢い人が言っているから正しい、という訳ではない。科学が言っているから正しい、というのもまた違う。誤りだと直感的に確信したから間違っている、と思い込むのは論外である。逆もまた然り。
重要なのは、尤もらしい、正解らしい情報を見聞きしたときに、一度立ち止まってみることである。
情報源はどこか? 何を根拠にしているのか? ほとんどが推論で出来ていないか? 自分で試せそうなことであれば、実際に試してみてから判断することをお勧めする。
冒頭に挙げた手法は、確かに有用性が高いのだろう。だからこそ多くの人に求められているし、紹介している人の数も多い。しかし生き方や人生哲学、勉強法、思考法、読書などなど、そういう類のものは確実に「正解」と掲げられるものではないということを心に留めておいてほしい。勿論多くの人間が同様のことを発言していたり実践していたりすれば真実味もある。
だからといって、安易にそこに逃げてはいけないのだ。
疑って、実践し、自分に合うかどうかを見極める。メリットデメリットを洗い出し、総合的に判断する。そうして自分にとって最善の手法を常に考え続ける。
「正解が欲しい」以上の大義や目標が無ければ、自分でこのような手間をかけるのは難しい。結果、安易に答えに飛びつく人間となり、軸が無いまま右往左往する。新しい手法に飛びついては止め、ただなんとなく、漠然とした不安だけが残る。そうした不安から、またしても「正解」を求め彷徨う。
いくら便利な手法があっても、そんなことではいつまで経っても不幸なままだ。あなたの求める真の正解は、あなたの中にしか無いのだから。
こんなことは私がわざわざ言うことでは無いかもしれない。それでも、この記事が誰かの不毛な徘徊活動を終える一助となれば幸いである。